剣道がオリンピック競技になるのがどうしてダメなのか

覚せい剤取締法違反(使用、所持)罪などで14年に懲役3年(執行猶予4年)の判決を受けた歌手・ASKA(58)が7日、ブログを更新。幼少期から青春時代を捧げた剣道を「オリンピック種目に」と訴えた。一方、全日本剣道連盟に“変化”を求め、提言も行った。

ソースが本題よりもいろいろと首を傾げなければならないことが多すぎるのですが(そもそも覚せい剤を使用するような人間が云々)、それは棚に上げるとして、剣道とオリンピックとの関係についての私の考えを記しておきたいと思う。


剣道に限らず武道全般に言えることだけれど、そもそも武力は「勝つ」ための力ではない。相手を「殺す」ための技術である。だから、武術を嗜むものを勝負相手にしてはいけないのは、結果として生死しかないからなのだと思う。武道の考え方として原理的には「負け」はイコール「死ぬこと」なのである。


ご存知の通り、人間は死んだら終わりである。


ではなぜ、「死んだら終わり」の武道がこのような形で存在するのか。それは、武道が「武力だけではない何か」を涵養する装置として機能することを先人たちが見抜き、錬成した結果だからではないかと思うのである。


全剣連が明記している「剣道の理念」には、下記のように記されている。
「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」
剣道は、試合に勝つことでも、あらゆる武力の中で一番になることでも、相手を威嚇するためでもない。剣道を通して理を知り、身体を作ることで成熟した人間を形成することが、剣道の真の目的なのだと言っているのである。


一方で、確かに剣道は各所で剣道大会を実施している。勝ち負けにこだわった剣道というのも確かに存在する。それでも、やっぱり最初に剣道の門をくぐった人たちには、剣の操作や身体運用を教える。勝つことが目的なら最初から勝つための剣を教えればよいのに、そうはしていないはずである。なんとなれば、やはり剣道の目的は勝つためではなくて、剣の理法を知り修練をすることによって人間形成をしてほしいからである。


オリンピックは、はたして剣道の理念を達成するための場にふさわしいだろうか。
私はそうは思わないし、全剣連も同じような考えなのだと思う。
月並みに言うと、剣道はスポーツではなく武道だからということになるのだろう。


「剣道だってスポーツだから運動神経のいい奴が強いじゃないか」
「審判がいて競技が成り立っているのだから、オリンピック種目として成立するのではないか」
「そんな古臭い考えはやめて、日本のいいところを世界に広げていかないと干されちゃうよ」


もしこの先、剣道という武道が世界に拡散せず、オリンピック種目にもならずに世界から干されたとしても、私は結構だと思っている。なぜなら、そういったことになったとしても、わが剣道人生が消えることはないのだし、そもそも剣道がこの世からなくなることなんて絶対にないからである。
逆に、もしこの先剣道が、オリンピック種目として採用されてしまった時には、剣道は必ずやスポーツ競技化し、理念や美意識を捨て値で売り払って、勝つために血眼になって剣道をしなくてはいけなくなるだろう。形が崩れ、見苦しい喧嘩剣道が跋扈するかもしれない。
ただ試合に勝つということだけで剣道が成立していると思っている方々はそのままでも結構だが、剣道はそんな小さなことを目的に日々行われているのではない。本当の剣道は、その門をくぐった瞬間からその人の人生を飲み込むように身体に浸み込んで、理念どおり人間形成にまで及んでいく。


全剣連には、そのような愚かな選択はしてほしくはないと思っている。私もそういった目的のために努力を惜しまない所存である。