書の理解の転換



第49回清華書道展に作品を出品した。今回は和漢朗詠集の臨書である。
季節が冬なので、冬の詩から引用した。


題材は風景を記したものをと思って、今回なるべくそういった詩を3つ選び、連記したものがこの作品である。

「寒流帯月澄如鏡 夕風和霜利似刀」
寒い川のほとりで、それでも空気が凛として澄み切っている様子と、鋭さ、緊張感がある詩だと思って記す。
語釈:冬の川の流れに月が映り、澄みきった水面は鏡のようです。さえわたる夕風は、霜の気を含んで肌をさし、刀のような鋭さをもっています。


「風雲易向人前暮 歳月難従老底還」
雲が流れていく景色が目に浮かんでくる詩。ただ風景の切り抜きではなく、刻々と変わっていく空が後半の詩で感じられる私の好きな詩である。
語釈:風が吹き白い雲が流れる空の景色も、人がこれに向かえばみるみるうちに暮れていきます。そのように、いったん過ぎ去った歳月は、老いの身にとってふたたび帰るときはありません。


「銀河沙漲三千里 梅嶺花排一万株」
雪が降り注ぐ様子を星や梅の花に準えた詩。銀河の星に例えることで、雪の降る空間がまるで永遠に続いていくようで、奥深い詩だなと思う。
語釈:あたり一面に降り積もった雪は、かの天の川の白い銀沙を三千里にわたって敷きつめたようです。また、かの庾嶺の一万株の梅が、いっせいに花開いたようです。


※語釈は川口久雄「和漢朗詠集全訳注」から

粘葉本和漢朗詠集を臨書したものだが、改めて臨書は難しいと思った。そのまま形臨することと、意臨することと、どちらがいいだろうと思案し、結局どっちにもつかない感じに今回はなってしまった。とくに意臨は難しく、実際に書いてみると形を追ってしまう。
妙な言い方をすると、意臨は身体を開放しないと書くことができないと思うのだ。あらかじめインプットしておかなければ、アウトプットできない。この作品を書くにあたって、私にはインプットが全く足りなかった。だから、改めて眺めてみると、一つひとつの字は「よく」書けてはいるのだろうが、平坦で趣がない。出品されていた他の臨書と比較すると一目瞭然で、私の書いた字はまだまだ習字の域を出ていないとわかる。


平たく言うと、私の字は作品としてはヘタクソだったということだ。でも、これですっきりした。


今まで自分の字が上手なのか下手なのかが判断できなかった。それはまた、どのような書が上手なのかという問いへの回答が私の中で確立されていなかったということでもあった。
しかし、この問いが正確に書を見ることの本質をついているかというとそうではない気がしている。改めて問いを言い換えるとすれば「どういった書が豊かか」ではないかと思う。確かに、上手下手はあると思う。でもそういったことを超えて作品を見たとき、どういう風にそれを受け止めていいのかがわからなかったのだ。それが今回の清華展で、少しわかった気がする。


いずれにしても私の修練の問題なので、時間のかかることなのだろう。ひたすら精進する所存である。