言語化という病

自分が思っていることを言わなければいけない機会が増えた。そして、言いたくないことを言わなければならない機会も増えた。今回は、自分の思うことを言葉にすることについて記すことにする。


自分が思ったことや体験したことを言葉にすることは、いいことだという風潮がある。自分の意見を主張することは、権利意識の高まりによって必要なこととなり、そういった発言は正当性を帯びて世に出るようになった。与太話として片づけられることも少なくなった。
そういった状況の中で、自分の思ったことをクリアカットにまとめることが世の中を泳いでいくには重要な技術になってきたわけで、自分としてはこうして文章を書きながらも、何かイライラする。


なぜかというと、言葉にしてしまうと、自分の中にあった言葉以前の状態から、あまりにも軽々しくなってしまうことが多いからだ。


言語化することは、他人に自分の感じたことを伝えるときには必要なことだ。けれど、それを強いられると、自分が言語化することをあえてしていなかったことまで頭の中で言語化を試みることになり、どうしてもチープなものになってしまうのだ。


例えば、小説を読んで感想を求められるとする。でも、優れた読み物は、私にとっては体験そのものであって、言語化すると片付いてしまうもの、終わってしまうものになる。それと同じで、あらゆることをわかりやすく言語化してしまうことに、いら立ちを感じてしまう。自分では言葉にしていない何かがあっても、発言したことによってそれが私のすべてだというようになってしまうのが、どうも感じが悪い。


言語化を求める方は、私の頭の中のことを理解するために求めるのだろうと思う。けれど、私のような自分の意見や体験を言語化することを避ける人間もいるということを知っているだけで、そうした切迫感はなくなると思う。その人の体験をトレースできればそうすればより理解できるだろうし、想像するだけでも「ああ、こういうことか」と違う次元での理解に到達することができる。私は、言葉よりもそういった体感が本当の理解だと思っている。


安易な言語化や、それを求める人を疎ましく思っている人は私だけではないと思う。最近では、そういった言語化を強いる人には、あえてストックフレーズで対応するようにしている。そういった人々は、往々にして深い理解を求めていないので、それだけでことが足りてしまう。でも、結局自分が思ってもみないことを言うことになるし、やはり一旦は聞かれた内容について相手も勘定に入れて言語化をしてしまうが。


なんだか核心を突かずに、周辺をぐるぐるするような文章になってしまった。

私たちは風邪を所有しているのか

わが社だけなのかもしれないが、インフルエンザや風邪に過剰反応している職場になっている。
一人が風邪を引けば、インフルエンザではないか、自分にうつるのではないか、ということを例えば咳をするたびに言うのである。
感染するかもしれないのはそうだろう。可能性はゼロではない。しかし、それほどインフルエンザや風邪は、そういった態度で忌避されなければならないことだろうか。


別の話をする。インフルエンザはウイルス疾患である。これに限らすほとんどの風邪症状はウイルスによるものだ。インフルエンザは重症になることもあるが、それは他のウイルス疾患にも言えることだ。感染力の強弱もあるがインフルエンザもその他の風邪も、性質は同じだと思う。
さらに、こうしたウイルス疾患は人から人への感染のみで広がるものではない。ウイルスは常に私たちの周りに存在しており、私たちの体は体調とのバランスをとるための戦いを毎日行っている。その戦局が劣勢に傾いたときにだって風邪になるのである。
私たちが風邪を引く原因が、目の前で風邪をひいている人から出ていると思われているウイルスによるものだという証明は不可能である。原因はもともと自分の中にあるのかもしれないからである。目前で咳をされても、直ちに全員が感染するわけではないのは、自分の中の戦局の優劣が感染を左右しているからである。


私が、"他人の風邪が自分にうつることを過剰に拒否する人"の態度に気持ち悪さを感じるのは、上記のような理解がなく、風邪は必ず他人から感染するものだという信憑に取りつかれていると考えるからだ。
こうした態度をとっている人の話を聞いてみると、過剰反応は"○○さんの風邪"という言葉をよく使う。風邪に罹患している人の中にいるウイルスやバクテリアは、その人の所有物であり、悪意を持ってそれをまき散らしていると思っている。


私は、顕微鏡でも見えないようなウイルスやバクテリアに所有権を設定するという発想に狂気を感じるし、だいたい風邪ごとき(インフルエンザも含めるが)でガタガタ言う者は、底が知れると思うのである。

書の理解の転換



第49回清華書道展に作品を出品した。今回は和漢朗詠集の臨書である。
季節が冬なので、冬の詩から引用した。


題材は風景を記したものをと思って、今回なるべくそういった詩を3つ選び、連記したものがこの作品である。

「寒流帯月澄如鏡 夕風和霜利似刀」
寒い川のほとりで、それでも空気が凛として澄み切っている様子と、鋭さ、緊張感がある詩だと思って記す。
語釈:冬の川の流れに月が映り、澄みきった水面は鏡のようです。さえわたる夕風は、霜の気を含んで肌をさし、刀のような鋭さをもっています。


「風雲易向人前暮 歳月難従老底還」
雲が流れていく景色が目に浮かんでくる詩。ただ風景の切り抜きではなく、刻々と変わっていく空が後半の詩で感じられる私の好きな詩である。
語釈:風が吹き白い雲が流れる空の景色も、人がこれに向かえばみるみるうちに暮れていきます。そのように、いったん過ぎ去った歳月は、老いの身にとってふたたび帰るときはありません。


「銀河沙漲三千里 梅嶺花排一万株」
雪が降り注ぐ様子を星や梅の花に準えた詩。銀河の星に例えることで、雪の降る空間がまるで永遠に続いていくようで、奥深い詩だなと思う。
語釈:あたり一面に降り積もった雪は、かの天の川の白い銀沙を三千里にわたって敷きつめたようです。また、かの庾嶺の一万株の梅が、いっせいに花開いたようです。


※語釈は川口久雄「和漢朗詠集全訳注」から

粘葉本和漢朗詠集を臨書したものだが、改めて臨書は難しいと思った。そのまま形臨することと、意臨することと、どちらがいいだろうと思案し、結局どっちにもつかない感じに今回はなってしまった。とくに意臨は難しく、実際に書いてみると形を追ってしまう。
妙な言い方をすると、意臨は身体を開放しないと書くことができないと思うのだ。あらかじめインプットしておかなければ、アウトプットできない。この作品を書くにあたって、私にはインプットが全く足りなかった。だから、改めて眺めてみると、一つひとつの字は「よく」書けてはいるのだろうが、平坦で趣がない。出品されていた他の臨書と比較すると一目瞭然で、私の書いた字はまだまだ習字の域を出ていないとわかる。


平たく言うと、私の字は作品としてはヘタクソだったということだ。でも、これですっきりした。


今まで自分の字が上手なのか下手なのかが判断できなかった。それはまた、どのような書が上手なのかという問いへの回答が私の中で確立されていなかったということでもあった。
しかし、この問いが正確に書を見ることの本質をついているかというとそうではない気がしている。改めて問いを言い換えるとすれば「どういった書が豊かか」ではないかと思う。確かに、上手下手はあると思う。でもそういったことを超えて作品を見たとき、どういう風にそれを受け止めていいのかがわからなかったのだ。それが今回の清華展で、少しわかった気がする。


いずれにしても私の修練の問題なので、時間のかかることなのだろう。ひたすら精進する所存である。

剣道がオリンピック競技になるのがどうしてダメなのか

覚せい剤取締法違反(使用、所持)罪などで14年に懲役3年(執行猶予4年)の判決を受けた歌手・ASKA(58)が7日、ブログを更新。幼少期から青春時代を捧げた剣道を「オリンピック種目に」と訴えた。一方、全日本剣道連盟に“変化”を求め、提言も行った。

ソースが本題よりもいろいろと首を傾げなければならないことが多すぎるのですが(そもそも覚せい剤を使用するような人間が云々)、それは棚に上げるとして、剣道とオリンピックとの関係についての私の考えを記しておきたいと思う。


剣道に限らず武道全般に言えることだけれど、そもそも武力は「勝つ」ための力ではない。相手を「殺す」ための技術である。だから、武術を嗜むものを勝負相手にしてはいけないのは、結果として生死しかないからなのだと思う。武道の考え方として原理的には「負け」はイコール「死ぬこと」なのである。


ご存知の通り、人間は死んだら終わりである。


ではなぜ、「死んだら終わり」の武道がこのような形で存在するのか。それは、武道が「武力だけではない何か」を涵養する装置として機能することを先人たちが見抜き、錬成した結果だからではないかと思うのである。


全剣連が明記している「剣道の理念」には、下記のように記されている。
「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」
剣道は、試合に勝つことでも、あらゆる武力の中で一番になることでも、相手を威嚇するためでもない。剣道を通して理を知り、身体を作ることで成熟した人間を形成することが、剣道の真の目的なのだと言っているのである。


一方で、確かに剣道は各所で剣道大会を実施している。勝ち負けにこだわった剣道というのも確かに存在する。それでも、やっぱり最初に剣道の門をくぐった人たちには、剣の操作や身体運用を教える。勝つことが目的なら最初から勝つための剣を教えればよいのに、そうはしていないはずである。なんとなれば、やはり剣道の目的は勝つためではなくて、剣の理法を知り修練をすることによって人間形成をしてほしいからである。


オリンピックは、はたして剣道の理念を達成するための場にふさわしいだろうか。
私はそうは思わないし、全剣連も同じような考えなのだと思う。
月並みに言うと、剣道はスポーツではなく武道だからということになるのだろう。


「剣道だってスポーツだから運動神経のいい奴が強いじゃないか」
「審判がいて競技が成り立っているのだから、オリンピック種目として成立するのではないか」
「そんな古臭い考えはやめて、日本のいいところを世界に広げていかないと干されちゃうよ」


もしこの先、剣道という武道が世界に拡散せず、オリンピック種目にもならずに世界から干されたとしても、私は結構だと思っている。なぜなら、そういったことになったとしても、わが剣道人生が消えることはないのだし、そもそも剣道がこの世からなくなることなんて絶対にないからである。
逆に、もしこの先剣道が、オリンピック種目として採用されてしまった時には、剣道は必ずやスポーツ競技化し、理念や美意識を捨て値で売り払って、勝つために血眼になって剣道をしなくてはいけなくなるだろう。形が崩れ、見苦しい喧嘩剣道が跋扈するかもしれない。
ただ試合に勝つということだけで剣道が成立していると思っている方々はそのままでも結構だが、剣道はそんな小さなことを目的に日々行われているのではない。本当の剣道は、その門をくぐった瞬間からその人の人生を飲み込むように身体に浸み込んで、理念どおり人間形成にまで及んでいく。


全剣連には、そのような愚かな選択はしてほしくはないと思っている。私もそういった目的のために努力を惜しまない所存である。

ただ花弁が散ること



今年の書道展覧会は「落紅雨」と書いた。花弁が散るさまが、まるで雨のようだという意味である。出典は宋の詩人で黄公度の「雨後春遊」から、詩句「萬點桃花落紅雨」の一部を引用したものである。
元の詩句からだと花(紅)は桃の花のことだが、本作品を書いたのは4月だったので、桜の花のつもりなのである。


通勤経路に桜並木がある。今年は3月の下旬に満開になり、とても見ごたえのある風景となった。特に夜景は幻想的で、桜の下を通ると、詩句のとおりたくさんの花弁が雨のように落ちてくる。宋の時代の人も現代の私と同じように、その風景に感じるところがあったのだろうと思うと、嗟悼せずにはいられない。


さて、作品を書くにあたって、毎回その題材については悩まされている。今回は、「差延」、蘭亭序の一説で「臨文嗟悼」などの候補があったが、どれも採用には至らなかった。師匠によると、風景を描いた詩句を題材にするとよいとのことだった。


どうも、私が選ぶ題材は仄暗いのだ。


意識的にそうしたことを書こうとする向きはある。雅な風景を題材に書くことは綺麗すぎて敬遠してしまう。そうではなくて、自分の感じている心情を活写したものが作品として相応しい気がしていたのである。
ところが、そうしたことを棚上げして、実際に師匠の提案した本作品を書いてみると、己の心情を書きつけることが短見であったと思う。
書は自分の心情を表すものではない。否、そういうこともあると思うが、本当はその逆ではないかと思うのである。つまり、確固たる心情がまずあって、それが文字として現前するという順序ではなくて、どうもよくわからない思いを文字にして書いたときに、初めて自分の心情が現れるという順序なのだ。


「落紅雨」と書いてようやく私は、桜並木の夜景に感じた心情を自覚することができたのである。
こうして、私の「落紅雨」は作品になった。


「落」の「各」部分3画目に居着きがあり、残念なところであった。次に向けてまた精進する所存である。

鬱からの脱却

先日から不安定な日々が続いていたが、名越先生の本を参考にして実践し始めたことがある。
それは、小さなことをコツコツ実行するという、文にするとなんでもないこと。



ご飯を食べるとき、腹八分目でやめておく。
スマホを見すぎずに止める。
決めた時間に字を書く。


なんだか子供の目標のよう。
大切にしているのは、自分が決めたことを一つずつ実行して、少しでもうまくできたら素直に認めること。上記の目標が達成できたら、「今ちゃんとご飯食べすぎずに止めることができたな」と、自分に言うこと。


いや。上記は少し格好付けている。
この「小さなことをコツコツ実行」の本領発揮は、もっと暗いところにある。


嫉妬心、羨望に数秒でも折り合いをつける。
自分の無能感を認めつつ思考をやめる。
内的な他者への攻撃思考をやめる。


自分の中の暗い部分を認めて、でもその思考をなだめる。治められたら「今3秒暗い思考を治めることができたな」と、自分に言う。この小さな積み上げが、後に自分を大きく治めることができると思う。

鬱と健常の間

最近ちょっと鬱っぽい。今目の前にあることに集中できずに、他のネガティブなことを考えている時間が多い。ネガティブなことに感情が引っ張られている感じがずっと続いている。
今回が初めてではない。今までもそうしたことはあった。これが「鬱」の初期症状なのだと再認識したのは今回が初めてだ。自分で意識してネガティブなことを意識の表舞台に上げているわけではなく、知らぬ間にネガティブがやってきていて私の運転している車のハンドルを操作している感じ。そうしたことが、断片的に現れる。


気をつけていると、そうしたことは起こらない。
「あ、今引っ張られているな」
「別のことを考えよう」
「今は目の前のことに集中しよう」
と考えられると、うまく逃げることができるときもある。けれど、どうしてもほかの事が手につかないときもある。こういったことが頻繁に起こると、鬱から抜け出せなくなるのだろうと思う。


鬱とは少し違う話だけれど、剣道をしていて最近気になることがある。私は打突の時に、どうしても右手を引いてしまう癖がある。右手を引いて打つと、どうしても刀の軌道が不安定になり空振ってしまう。
意識していると、右の引き手を直して打つことができるが、他の事にこだわると忘れてしまって、結局引き手になる。極論すると、右の引き手は無意識から現れている。


もし、私の剣道に右の引き手がなくなったとき、鬱もきっとなくなり、私の剣道もまた、今とは違ったものになるだろうと思う。