ただ花弁が散ること



今年の書道展覧会は「落紅雨」と書いた。花弁が散るさまが、まるで雨のようだという意味である。出典は宋の詩人で黄公度の「雨後春遊」から、詩句「萬點桃花落紅雨」の一部を引用したものである。
元の詩句からだと花(紅)は桃の花のことだが、本作品を書いたのは4月だったので、桜の花のつもりなのである。


通勤経路に桜並木がある。今年は3月の下旬に満開になり、とても見ごたえのある風景となった。特に夜景は幻想的で、桜の下を通ると、詩句のとおりたくさんの花弁が雨のように落ちてくる。宋の時代の人も現代の私と同じように、その風景に感じるところがあったのだろうと思うと、嗟悼せずにはいられない。


さて、作品を書くにあたって、毎回その題材については悩まされている。今回は、「差延」、蘭亭序の一説で「臨文嗟悼」などの候補があったが、どれも採用には至らなかった。師匠によると、風景を描いた詩句を題材にするとよいとのことだった。


どうも、私が選ぶ題材は仄暗いのだ。


意識的にそうしたことを書こうとする向きはある。雅な風景を題材に書くことは綺麗すぎて敬遠してしまう。そうではなくて、自分の感じている心情を活写したものが作品として相応しい気がしていたのである。
ところが、そうしたことを棚上げして、実際に師匠の提案した本作品を書いてみると、己の心情を書きつけることが短見であったと思う。
書は自分の心情を表すものではない。否、そういうこともあると思うが、本当はその逆ではないかと思うのである。つまり、確固たる心情がまずあって、それが文字として現前するという順序ではなくて、どうもよくわからない思いを文字にして書いたときに、初めて自分の心情が現れるという順序なのだ。


「落紅雨」と書いてようやく私は、桜並木の夜景に感じた心情を自覚することができたのである。
こうして、私の「落紅雨」は作品になった。


「落」の「各」部分3画目に居着きがあり、残念なところであった。次に向けてまた精進する所存である。