言語化という病

自分が思っていることを言わなければいけない機会が増えた。そして、言いたくないことを言わなければならない機会も増えた。今回は、自分の思うことを言葉にすることについて記すことにする。


自分が思ったことや体験したことを言葉にすることは、いいことだという風潮がある。自分の意見を主張することは、権利意識の高まりによって必要なこととなり、そういった発言は正当性を帯びて世に出るようになった。与太話として片づけられることも少なくなった。
そういった状況の中で、自分の思ったことをクリアカットにまとめることが世の中を泳いでいくには重要な技術になってきたわけで、自分としてはこうして文章を書きながらも、何かイライラする。


なぜかというと、言葉にしてしまうと、自分の中にあった言葉以前の状態から、あまりにも軽々しくなってしまうことが多いからだ。


言語化することは、他人に自分の感じたことを伝えるときには必要なことだ。けれど、それを強いられると、自分が言語化することをあえてしていなかったことまで頭の中で言語化を試みることになり、どうしてもチープなものになってしまうのだ。


例えば、小説を読んで感想を求められるとする。でも、優れた読み物は、私にとっては体験そのものであって、言語化すると片付いてしまうもの、終わってしまうものになる。それと同じで、あらゆることをわかりやすく言語化してしまうことに、いら立ちを感じてしまう。自分では言葉にしていない何かがあっても、発言したことによってそれが私のすべてだというようになってしまうのが、どうも感じが悪い。


言語化を求める方は、私の頭の中のことを理解するために求めるのだろうと思う。けれど、私のような自分の意見や体験を言語化することを避ける人間もいるということを知っているだけで、そうした切迫感はなくなると思う。その人の体験をトレースできればそうすればより理解できるだろうし、想像するだけでも「ああ、こういうことか」と違う次元での理解に到達することができる。私は、言葉よりもそういった体感が本当の理解だと思っている。


安易な言語化や、それを求める人を疎ましく思っている人は私だけではないと思う。最近では、そういった言語化を強いる人には、あえてストックフレーズで対応するようにしている。そういった人々は、往々にして深い理解を求めていないので、それだけでことが足りてしまう。でも、結局自分が思ってもみないことを言うことになるし、やはり一旦は聞かれた内容について相手も勘定に入れて言語化をしてしまうが。


なんだか核心を突かずに、周辺をぐるぐるするような文章になってしまった。