鋼の錬金術師にみる大人になること(ネタバレ)

鋼の錬金術師が次回で最終回を迎えることになった。毎週楽しみにしていたので、終わってしまうのは寂しいが、旅には必ず終わりがある。


私は「銀河鉄道999」「魔神英雄伝ワタル」「エウレカセブン」など、少年の成長譚を好んでみる傾向がある。どのタイトルも、子どもだった主人公が旅を通して「大人になる」ことが大きなテーマである。


「大人」とは、自己利益の追求と、公共の福利に配慮することがバランスよく保たれている状態で、滅私奉公でもだめ、かといって我さえよければそれで良いということでもない、自分自身の生活を楽しく過ごしていくことと、自分の属している共同体を維持するために自分自身がどんな役割があってそれを果たしていかなければならないかということを等量に考えられる人間であると思う。内田先生の受け売りですが・・・。


そんなことを考えながら、「鋼の錬金術師」は中でもよくできた成長譚なので、最後にどう終わるのか楽しみにしていた。


前回のシリーズは、今回と同様に少年の成長譚で、「母」が大きなテーマであった。
エルリック兄弟が母を錬成するが、その代価としてエドワードは手足と、アルフォンスは体を奪われてしまう。自分を取り戻す旅は、母を求める旅であった。エドワードは、自分自身を錬成してアルフォンスをもう一度"生み出す"ことで、エドワードは失った母を自分の中で構築し「大人」になったのである。
しかしながら、前回ではもうひとつのテーマである「等価交換」とはどんなものなのかということを言及していなかった。今回ではそれを描くことで、深みのある物語になった。


今回のシリーズは「錬金術とは何か」ということを通して「大人とは何か」をテーマとしている。
錬金術は等価交換の原則に基づいて、理解・分解・再構築をする術であるが、錬金術が成し遂げることはすべて「自分の欲望を即座に満たすもの」である。攻撃を防御するための盾から、不老不死にいたるまで、錬金術はすべての欲求を満たしてくれるツールであり、原則である等価交換は、リスクを冒した分だけかならず同等のリターンがあるということである。
鋼の錬金術師」の錬金術とは、いわば交換経済の象徴であり、子供時代の記憶なのである。
エドワードにとって錬金術は大きなアイデンティティであったはずである。しかし彼は、錬金術=等価交換=今の自分のアイデンティティの否定が、自分の属する共同体=自分自身を維持することに有益だと気づいたのである。


エドワードは、旅の終りに「錬金術」を否定することで「大人」になったのである。


鋼の錬金術師」における「大人」とは、錬金術という交換経済あるいは子供時代の否定と、自分の属する共同体の維持に対する責務を自身が負うことを自分自身に宣言することである。このことを真理の扉の場面で描いたのである。