「やらない善よりやる偽善」マルクス的考察

「やらない善よりやる偽善」は、UDがん研究プロジェクトへの参加の呼びかけにの標語として誕生した(ようである)。そしてUDがん研究プロジェクトは、インターネットに繋がれた個人のPCの余力スペックを掻き集めて、スパコンの代用にするというものである。すなわちPCの余力スペックを提供しさえすればUDがん研究が進展するのであって、善意の有無は問われない。

数年前に2chでこの言葉を見かけ、最近までこの言葉の意味するところというか、自分が惹きつけられる理由がなんなのかを考え続けていた。


そんな状況で、内田樹×石川康宏の「若者よマルクスを読もう」を読み、こんな文章を見つけた。

「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する」(『新版ドイツ・イデオロギー』花崎皋平訳、合同出版、一九六六年、三一頁)
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例えば、ここに「根っから邪悪な人間」がいたとしますね。こいつがたまたまもののはずみで「善行」をしたとします(おばあさんに電車の席を譲るとか。まあ、それって厳密には「生産」じゃないですけど)。史的唯物論的には、この人は「いい人」ということになる。その人が「ほんとうは何ものであるか」なんて、極端な話どうでもいいよ、と。マルクスはそう言っているわけです。どれほど根がヨコシマでも善行をすれば善人。どれほど根が善良でも悪いことをすれば悪人。
僕はこれを読んで、心底「ほっ」としたことを覚えています。



実は私も、マルクスのこの文を読んで正直「ほっ」とした。いろいろな問いに対して、様々な答えを用意する際に、人には言っていないが、私も結構邪悪なことを考えていたのである。それは言葉ではなくて、私の身体からオーラのように漏れていて、私はそれを隠しているつもりだけれど、他人はそれを分かっているんじゃないかと怯えていたのである。でも、マルクスはその人の行いを見よと言っているのである。


「やらない善よりやる偽善」はまさにこのことを言っているのではないか。


「やらない」と「やる」は具体的な行動「なにを成すか」ということであり、「善」「偽善」は主体の考えを指しているとすると、この文章はマルクスの言っていることと同じであるように思われる。「やらない善」は、善いことを考えているけれど、なにもやっていない人。「やる偽善」は自分の考えに偽善性を感じながらも、表向きは善いことをしている人。どちらが善いのか。それは善を行ってはじめて「善」ではないのか。なにが善でなにが悪なのかは置いといて、理論的にはそういう事ではないか思ったのである。


そして、明日からまた邪悪なことを考えながら、ちょっとずつ善を行っていくのである。


若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)