「学校掃除不要論」と子どもの消費主体化

ツイッター上で、現役中学生から「学校掃除不要論」が提案され、論議を呼んでいる。このツイートを発信したのは、大阪府豊中市の公立中学に通う西田成佑さん。彼が17日に、「学校掃除ってあんまり要らない気がする。生徒じゃなくて業者が掃除すれば学校ももっときれいになるのに…」というツイートを発信すると、この発言が注目を集めた。そしてツイッター上では、反論する大人が多数あらわれた。

この言説の最たるものが「そもそもなんで勉強なんかしなくちゃいけないの?」ってことなのだが、この展開で内田先生の「下流志向」を思い出した。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

この本では、若年者が勉強しなくなった原因として、「消費主体」と「労働主体」という言葉を使って説明している。これは、物事に対してどの切り口で関わっていくかということであり、消費主体は「お客さん」であり、労働主体は「働く人」である。そして勉強しなくなった原因を、若者たちが教育に対して消費主体的な振る舞いをしてしまっているからであると説明している。


前に記した「なんで勉強なんかしなくちゃいけないのか?」という問に対して、私は答えに窮しながらも何らかの答えをするだろうが、まずはその質問を投げかける人は何者なのかということを自覚することなしには、何を答えても満足しないであろうと思う。
そして、今回の「なんで掃除なんか・・・」もこれと同意である。「業者に頼めば・・・」の下りなどまるっきり消費主体である。学校では生徒はお客さんではない。生徒である。


学校は学ぶところであり、学校のカリキュラムのそれによって何が得られるのかは生徒はわからない構造である。それは人によって物事の受け止め方が違うように、学習の効果も千差万別であるからだ。
この「なんで掃除なんか・・・」と疑問を呈している少年は、この質問の内容を見るに、掃除をすることによって得られるものが何かということは完全に分かっているようである。その答えは「教室がピカピカにきれいになる」という事のようだ。(だから業者に頼めばもっときれいになるという意見になる)
しかるに、掃除をすることの目的が、そも教室の美化ではなく、それによって「あなたは労働主体としてしか共同体の中で生きられない」ということを教えたいのだとしたら、この少年はどう思うだろう。目の前にあるホコリは一体誰が掃除するのだろう。それは自分が拾うのだ、それが労働主体(進んで自分でする主体)なのである、ということが理解できるだろうか。