解体する僕の身近な中間共同体

内田先生の言う「中間共同体」の解体を、事あるごとに実感するようになった。


僕の考える中間共同体が、内田先生のそれと違うかもしれないけど、個人的には、より大きな共同体と個体を結ぶハブのような役割なのかなぁと思っている。だから中間共同体は、木の上に登って見ると見えないけれど、地面に降りて見たら見えるもの。個体は、虫眼鏡で見たら見えるものなんだろうと思う。そう考えると、中間共同体は数多ある。


少なくとも自分の身近にある中間共同体は、自治会、会社、親族等、個人的に数えていくだけでも結構ある。その解体たるや、20年前と比べてもかなり顕著ではないかと思う。


自分に寄せて中間共同体の解体を考えると、つまり地域社会にあるものの解体が実感される。自治会はどんどん疎遠になって、氏子が負担だということで自治会を独立させてしまった。戸数からしたら別に独立しても良いのだけれど、「中間共同体」という厄介でウザくて、でもそれも込みで連帯していたものを、実態に合わせてクリアにしてしまったことが、逆にそのまた小さな中間共同体を弱体化させているのではないかと実感している。


会社にしたって、派遣職員雇ったり、微妙な立場の嘱託職員増やしたりして、どんどこ共同体のメンバーを解体している。「でも、親睦会だってやってるし、仕事だってなんとかシェアしてやってるじゃないか。雇用形態なんて関係ないよ」と言う人がいるかもしれない。でもそれは、当事者立場の意見ではありえないのではないのか。少なくとも、僕はこの文章を書いた時、極めて「こちら側」の感覚で書いていて、それについてこの時点まで無反省だった。同組織内をクリアに階層化したことによって、緩やかに共同体は分解していく。


あっ、そうか。「中間共同体の解体」は、つまるところ共同体を構成している正体をクリアにすることなのか?分かりやすくすることによって、よくわからなかったキモさを払拭することによって、それが弱体化することがあるってことか?


上記の自治会だって、自治連合を中間共同体とすると、そこから何かを得ていたんだが(実感しなくとも)、「そんな義理ないじゃないか」という事を善意にせよ唱えてしまったことで組織がクリアになっちゃって、結果的に弱体化してしまう。
会社も、「その人のライフスタイルにあった働き方」なんて言っちゃったから、「個」がよりクローズアップされて、それが利己的な振る舞いを生んで、どんどんバラバラになっている。「一緒に考えようぜ、そんな固いこと言わずに」とか、「ままっ、どうぞどうど」というふうに物事を考えていた頃のほうが、よりうまくいっていたのではないのか。「これはあなたのなんだから、私は知りませんよ。だって私はここまでなんだから」などと「個(私)」をクリアにすることで、あるいはそれを守ることで、どんどん解体していくのだ。


「みんな仲間じゃないか」って、今度から言うことにしようかなぁ。