「気を遣う」というジレンマ

毎週土曜日は、剣道の稽古日。家族には多少・・・多大に迷惑をかけているが、私にとっては大事な時間だ。


去年の10月から幼少のころに通っていた道場に再入門した。只々、剣道がしたくて再度門を叩いたのである。
師匠は、快く私を迎えてくれた。道場は、動的平衡状態の共同体である。システム自体は変わっていない。共同体を構成しているメンバーが怒涛のごとく入れ替わっているのである。


再入門したての頃は、負い目があってなかなか共同体に入り込むことが難しかった。今考えると当然なのだが、いくら故郷とはいえ、今の共同体は全く新しい共同体なのだ。師匠の僕に対する態度も、かつての門人も、変わっていて当然なのだ。僕は全く新しい道場に行くのと変わらなかった。手繰っていたのは、本当に細い昔の縁だけで、後は何もなかったということに気がついた。でも、昔みたいな暖かさというか、懐の広さは昔と全く変わらなかった。新しい入門者であろうと、かつての門人であろうと、剣道をする人間にとってあの場所はすごく開放的だったんだと改めて思ったのである。


最初は練習してすぐに帰っていた。やっぱり負い目があって、僕のようなものでは、通っている小学生でさえ相手にしてはもらえないのではと思っていたからである。ところが、通っているうちに周りの人達も私のような存在をこのままでは気持ち悪がるだろうし、私もどうにかしたかった。そんな時に内田先生のツイートを思い出した。

いま武道的に覚醒する手前だよ。あと一息RT@simpeiii 周りに気をつかって自分のやりたいことをやらないのと、周りに気をつかわずに自分のやりたいことをやるという形で気をつかうのと、「気をつかう」という作業は一緒なわけであって、どちらの方が自分の身体にダメージが少ないのだろう


ちょうど剣道を再開したときに、じつはこのツイートがずっと気にかかっていた。
とにかく気を遣っていたのである。相手に悪いのではないかと。あるいは、それは相手に気を遣っていたのではなくて、自分が相手に願うことができないことの言い訳だった。だから、相手に悪いのではないかと「相手に気を遣う」のも、自分から願うことができないから「自分に気を遣って」帰るのも、「気を遣う」ベクトルは同じなのではないか、と思ったのである。
あるいは、自分のやりたい事をやる場合も同じである。結局相手に気を遣って願うのであり、自分のやりたい事をやるので自分にも気を遣っている。ここも「気を遣う」ベクトルは同じなのである。


そうであるなら、僕はもう剣を振るしかない。
相手もそう思っている。同じ気遣いのジレンマを抱えていると思わなければ、互いに剣を振らなければとくことができない。
そうすることでしか、僕も相手も明日はないからである。


「どっからでもかかってこい」という気概は、この相互的な気遣いの境地なのかもしれない。