「僕は関係ない」という青臭さ

歳のせいか、最近はよく答えを求められる。今までは意見を求められることはあっても、答えを聞かれることは稀だった。しかし、最近は相手が正解を求めてくるようになった。仕事のポジション的なものもあるのかもしれない。


でも、相手は本当に「正解」を求めているのだろうか。もしかしたら、自分の有責感を手放すための儀礼ではないのか。ふと、そう考えた。


具体的なケースの解決策を振られると、立場的に杓子定規なことしかいえないので、そういうことをまずは言わなければならない。そうすると、端的に「どうすればよいのか」という具合になる。でもこれって、本当に「どうすればよいのか(私は困ってます)」と聞いているのではなくて、「どうすればよいのか(責任者出てこい)」と言っているのである。「私」には責任はなくて、問いかけをしている私に責任を預けてきている。どうも違和感がある。なぜそんなに構えているのか。


そんな時にこんな記事。
『大人は「なる」ものじゃない。大人は「やる」もの。「引き受ける」もの。』−シロクマの屑籠(汎適所属)


先の具体的なことで言うと、私に解決策を振る段では相手はその状況を引き受けているという状態が「大人」である。「僕は関係ない」と出られると、私がその責任を引き受けることになる。私の選択肢は二つ。その責任を「俺には関係ない」といって投げ返すか、それを引き受けるかである。


「大人なことをする」機会はたしかに減っているが、貴重な機会をこういった形で自ら放棄していることも事実である。私も振り返れば「僕には関係ない」と何度も責任を放棄してきた。でも反対の立場になって、その違和感は「もうそろそろ、そういう青臭いことやめませんかねぇ」という事なのだろうと思う。「大人なことをする」ことでしか、私はいつまでもこのままだし、ちょっとずつそういう有責感を背負っていくことでしかわからないこともあるのかもしれない。