なぜボランティアをするのか

震災のニュースが原発のニュースに食われて、政府の対応についての批判という流れになった。メディアは、何かに付けて政治批判をする機会を狙っている。もっとほかにないのかねといい加減うんざりしてくる。
といっても、この意見そのものがメディアの定型に乗っかっちゃっているのも事実である。私は、メディアの政治批判と同じように、メディア批判をする機会を狙っているのかもしれない。


震災の状況が明らかになって、ボランティアや募金などの復興支援の動きが出てきている。それはとても結構なことなのだけど、それとは別に、ボランティアと聞くとどうも気持ちが片付かない。嫌悪ではなく、なんとなく気持ちがモヤモヤする。
私は、福祉の仕事をしているので、ボランティアについて理解をしなければならない立場なのだろうけれど、これまでボランティアに取り組んでいる人達を見てきて、なぜボランティアをするのかどうしても理解できなかった。そして現在でもそうだ。それでも、私の理解を超えてそういった活動をする人達に敬意を持っている。でもやっぱり、我が身を顧みると、ボランティアについての気持ちは片付かないままだ。
特に、今回のような災害ボランティアは嬉々としてするものではないし、悲しみのどん底ではそもそも活動ができない。私は正直大災害に被災したことがないので、当事者の気持ちが正確にはよくわからない。しかしながら、津波で何も無くなってしまった町を見るたびに、わが町だったらどうしただろうという気持ちでいっぱいになる。一体どのような気持ちでボランティアに臨むのがよいのか。


現在のところ、この災害ボランティアに臨むとすれば、片付かない気持ちのまま、戸惑った形で臨むのが一番私の気持ちに合っている。只管、被災地にとって良いと思うこと以外にすることがないのも事実である。私の場合、それを戸惑いながらするところが精一杯だろう。


決して支援に対して躊躇してるわけではない。今後、私は職務として、あるいはボランティアとして現地に行くことになる可能性がある。その時に一体どういう姿で被災地に立てるだろうか。そんな独りよがりのくだらない悩みなのだ。