それでもなお普通に暮らす自分

日常生活は災害を込みで成り立っている。
昨日、そんなことを思っていた。


東日本大震災が起きる前、私は平常の生活に震災なんて存在しない、むしろ震災など意識したことはなかった。
震災後、実はそんなことはないということがリアルに浮かび上がってくる。テレビを見ても、ネットをしても、街を歩いても、仕事をしても、震災の空気が伏流する。もうどこにも逃げ場がない。リベラルだと思っていた空間さえも、震災の影にかかっていた。これは震災が起きたからそうなったのではない。本当は、私が自覚する以前から、死と同じように、あらゆるところに存在していたのだった。私はそれを、無意識に見ないようにして、無知を装っていたんだと思う。


今、インターネットの中で震災がくっついていないページを探すことのほうが難しい。どこも、震災について、あるいは震災に関する報道について、被災状況について、募金について、思ったことを綴っている。
それは、悪いことではない。そうやって自分なりに被災地を鎮魂するやり方を否定しないし、私自身、現にこれを書いているという行為が、すでに震災についてコミットしているからだ。私も周りの風景に、震災をマークしていることに加担しているし、私の震災を治めたいから、こうしているのは否定しない。
でも、そういったことをしない、つまり、まるで震災なんてなかったような振る舞いをすることは罪なのだろうか。こんな状況でも、私はアルマンとフレデリックのアルマンのように、銀河鉄道の夜のジョバンニのように、震災ということは事実なのだけれど、それでもなお、弱く普通に暮らしていくことは、指弾されるほどのことなのだろうか。


メディアやイベンドなどで「頑張ろう」と唱える。


一体何を?


とにかく頑張るとして、頑張らなかったらどうなの?それをしなかったら冷たい人なの?
頑張りもせず、募金する。
頑張りもせず、震災絡みの仕事をする。
そして、頑張りもせず、好きな本を読みながらダラっと寝る。
こうして、頑張らずに日々を過ごしていく。


頑張るってなんなのだろう。