幼少が語られる時の「記憶」

幼い頃の記憶を、ああだったこうだったと思い出して口に出されるとき、記憶は都合のいいように巻き直されて現れるというのはわかるのだけれど、その目線というか、そういうことも当時の正確さはもうあり得ないのだろうなぁ、などと考えていた。


例えば今日思ったのは、幼い頃の不可解な自分の行動を思い出すときの「きっと幼い頃の私はこう思ったのだろう」という目線は、もう当時の自分を語っていなくて、過去の自分という「他人」を、現在の私が俯瞰的に見て評価的にそう言っている。幼少が語られる時の記憶は、もう記憶じゃなくて、今ここにいる私の意見にすぎない、本当に作り話なのではないか。
外側から見た行動は確かに当時存在したかもしれない。(実際その記憶も危うい。後の私の解釈次第で、順逆がおかしくなったり、別の行動がビルトインされているかもしれない)
けれど、そこに伏流している意識や思いは、無知さ加減やバカさ加減を含めて、もう当時のまま想起することは不可能で、私は当時の私を絶対他者として、触れられないものとして、扱うほかないように思う。


当時使っていた頭のネットワークの中に、今この時点までに入力してきた情報は組み込まれていない。いわば全く別の頭のネットワークを使っていた当時の自分には、今私が思い出して言う「こう思ったのだろう」は絶対あり得ないだろうと思うのである。


記憶とはこれほど曖昧で、存在するのかどうかも怪しいものだった。


そんなことを、トイレで考えたのでした。