勝利することと生き残ること

事情により人に仕事を頼まなくてはいけなくなった。
同僚に、今週末に予定されている会議の仕込みを伝える。
やっぱり実務をしている人でないと、指示しても使えない。ノリが違うというか、普段からやってないと全く使い物にならない。
今回のような緊急時の場合、口先だけで普段ああだこうだと指示しているだけで何もしない人より、口出しせずに実行している人の方が信頼できる。


こういう機会を、そういった物差しに使ってしまうことに、多少の罪悪感はある。
例えば、嫉妬で愛情を測るとか、負の物差しを使って正のことを推し量ることにいささかの後ろめたさはある。
しかし、危機管理というか、人間やっぱり切羽詰まったときに、どういう対応するかで、その人がどういう人なのかがわかると思う。


平時に使っている物差しをパッととっちゃう。
すると必然的に、生身の自分で事を解決しなければならない。


平時とは「限られた空間の中で、ルールがあり、ジャッジする人がいる」ことであり、勝利するとはこの限られた空間の中のみの出来事である。
緊急時はつまり平時と逆のこと「ルールもない、ジャッジする人もいない、無限空間」であるので、この状況において「勝つ」という相対概念は成立しない。
Winnerであることは、Survivorであることではない。


自分の行いが「本当に」正しいのかどうか。それを推し量るルールもない状況で、それでも正しく判断し、正しく振る舞うことができる。そういう力こそが人間的な強さの源というか、賢さというか、クリエイティビティ、重いものなのではないかと思う。