市場経済主義社会福祉制度批判

文献を当たってみなければならないのだけれど、社会福祉制度や施設を市場経済主義の流れで語られている文章ってあるのかなあ、もしあったらちょっと読んでみたいと思った。


これは私の妄想だけれども、近代社会福祉制度や施設は、ヨーロッパにおける隔離・収容政策や、戦傷病者の社会保障政策の影響をかなりの割合で受けて成り立っているような気がする。それはそれで悪いことばかりではないと思うのだけれど、それが終戦から高度経済成長へ進んでいくところで、共同体の解体が施設や社会福祉制度の構造を変えなければいけないまで進んでしまった、あるいは、こっちの方が本当かもしれないけれど、経済成長の過程で消費主体を大量に必要としていた社会が、市場として未開拓であった社会福祉に目をつけて、結果制度を変えなければならないほど「福祉的共同体」を解体してしまったといえるのではと思ったのである。


妄想も甚だしいのだけれど、どうだろうかと。


具体的には、高齢者の介護保険制度や障害者の支援費制度が、福祉共同体を解体するための制度としての帰結ではないかと思われる。介護保険も支援費制度も、結局は施設やサービス(この言葉がすでに市場経済主義的エクリチュールであるが)を受ける対象を消費主体化し、それを受ける側を市場の淘汰圧にかけるという仕組みをとっている。施設やサービスを利用する側を「お客様化」し、サービス提供者はそれをゼロサム的に取り合うという図式は、古き良き福祉とは対照的なギスギスした感じに思える。


福祉制度を利用する側を消費主体化することで、なぜ共同体が解体するのか。それは、最初の出発点が微妙にずれていることにある。
すなわち、利用する際にお金を持っているかいないか、あるいは選択する幅を持っているかどうかである。
旧福祉制度の多くは措置制度である。措置とは、行政が利用する人たちを決定して施設に入所させるという考え方である。ここには、個人の選択余地がない代わりに、問答無用の福祉共同体が形成される。この状況を見て、人権擁護の観点からし福祉施設は批判を受けるのであるが、福祉共同体はこれでいて地域共同体の一つであるわけだし、たまたまそこに居合わせた人たちとともに暮らすという点においては、マンションや自治会と一緒だと思う。(少々乱暴な考えだけれども)


しかし、昨今の利用者の消費主体化によって福祉制度は、この「問答無用」感を失ったのである。


お金を渡さず選択の幅もなかった措置制度から、お金を渡して選択の自由を基本とした介護保険制度や支援費制度が現れたからである。もはや処遇を決めるのは、行政ではなく本人であり、どこに行くのかも自由である。


でも、これってそんなにハッピーなことなのだろうか?と思う。


たしかに、そういった制度が運用されはじめて、経済が潤って、福祉制度も充実することは結構なことだし、それ自体を私は否定するわけではない。
けれども、そうすることによって、利用する人々がどんどん個別化し、共同体は解体していく。サービスという形で施される処遇がメニュー化されることによって、利用者は自分でそれを(安価に)選ぶことができるので、身近なネットワークを使わなくなったからである。つまり、醤油を隣の家から借りなくなったのである。
醤油を借りなくなったということは、つまりそこには市場の拡大と共同体の解体があるということだ。
福祉制度を利用する局面というのは、ほとんどの場合、利用者が社会的に弱くなってしまった状態である。であるにもかかわらず、サービスを施す主体が弱体化してしまっていては、個人も共同体もサバイブできないのではないだろうか。


サービスの質を市場に問えば必ずそれはよいものになるという市場原理主義によって、地域共同体は解体していき、核家族すらも危うい状況にある。その旅路を、福祉業界も歩んでいるのではないだろうか。


などと妄想したのだけれど、とりとめのない文章になってしまった。