先を取る

私たちが仕事として行っていることの一つに、行政機関への要望がある。
数十年前、業界がこれ程細分化されていなかった頃、行政機関との二項対立が成立していて、要望活動が有効に機能していた。
しかし、ここ数年こうした要望活動はほとんど機能しなくなった。福祉という分野も細分化し、それを受ける行政機関の窓口も伴って細分化したために、かつての二項対立的な大きな流れが無くなって、要望活動そのものが小粒になったからではないかと私は思う。
私たちの要望活動は、行政機関にとってそれなりのウェートを占めていたとしても、それはすでに小粒化した幾つかある要望(あるいは「苦情」と言ってもいいかもしれないが)の一つであって、かつてほどの重みがあるわけではない。行政機関はそう考えているのではないか、と思うのである。


このような話を同僚にしていたら、前向きな同僚はこう答えた。
私たちが数年前から肩透かしを食らっている要望活動が、もし社会構造の中で機能しているとすれば、それはここではないもう一つの構造の内にあって、それがうまく機能するための一つとして私たちの構造は存在しているというのである。


確かにそれであれば、私たちのこうした活動も全く無意味ではないと思うのだが、そうであったとしてもかつての二項対立構造を維持しても、もうひとつの社会構造は成り立つのではないか。
あるいはそうではなくて、私たちのいるこの構造が、その存在意義でもあるもう一つの構造の改変(あるいは破壊)に伴って細分化したものだとすれば、それはもうすでに私たちの及ぶところではないのではないか。
つまり、構造の改変をもたらしたのは、他ならぬ私たち「市民」ではないだろうか。


構造の改変に伴って、ある業界も改変に至る。これ自体に良し悪しはない。
しかし言えることは、この構造を私たち市民と、福祉業界というふうに考えると、市民は絶対的な知性の遅れを体験せざる負えなくなると思う。


ある専門知識を所有する人達が、何も持たない市民に対してリテラシーが必要であるというのは簡単なことだし、市民が知識における絶対的な遅れを認識してそれに留まるうちは良いのだけれど、もし、市民が存在する構造から専門家に対して市民リテラシーがないと言われた場合、この時点では専門家の知性の遅れということになる。


けれども、この「専門家の知性の遅れ」は仮の姿のように思う。専門家からすれば、自分たちが考えていることを市民リテラシーに則して語ったとき、私たち市民は改めて埋めがたい知性の絶対的な遅れを体験するような気がする。


それでよければ良いんだけど。