理念を失った保育制度の到来

夏の電力対策のために大手企業が「節電」の為に操業日をずらして土日に仕事をするため、職員の子どもを預かる保育園が土日保育を拡大する動きがある。


私はそのニュースに触れ、「あれ?」と思ったことが二つある。


まずひとつは、企業が言っている「節電」とは何なのかということ。
私は、総電力の縮小が節電だと思っていたけれど、企業が言っているのは電力ピークをずらすことが節電だといっている。これを一緒にしてよろしいのだろうか。
企業の電力対策は、震災の電力不足がなくても近年言われていたピーク時の一時的電力不足対策であり、震災の文脈から語られてきた総電力の不足とは違う。
まぁ、とぼけて「いやいや今回の電力不足対策は震災の文脈とは関係ないですよ」といえなくはない。しかし、この趨勢が震災の電力不足を完全に切り離した形で動いていると純粋に思っている人はどれくらいいるだろうか。おそらくほとんどの人は、同じ問題視点であるにも関わらず震災以前の電力ピークの問題とは違う形で、今回の企業の節電を見ているのではないか。


震災以前まで語られてきた「電力不足による節電」の切迫と、それ以後に語られる「電力不足による節電」は明らかに記号の意味が違うのではないかと思うし、それが私が疑問に思ったまずひとつめである。


二つ目は、この動きによる保育園への要望が、自明のものとして動いているように思われる点である。
保育園はそもそも家庭における保育に欠ける児童の受け入れを行うところであり、保育園の存在が発するメッセージは、「できれば家族、家庭で子どもを育ててほしい」ということである。
それが、この動きによって保育園年中無休体制が可能だということになり、金さえ払えば保育園は児童を預かるべきということが自明となった社会は望ましいものだろうか、と思うのである。


たしかに企業も、保育園も、これは仕方のないことだと思っているだろう。私もそういう気持ちを理解できなくはない。
しかし、なし崩し的に議論もないまま「(ほぼ)年中無休保育の実現」と「本来の保育概念とは違った保育園の利用(金で保育を買うことの懐疑のなさ)」を譲ってしまったら、企業のみならず、保育園も、子どもを(家族を)見捨てることになりはしないだろうか。


私が共働きであった頃、保育園を利用することに些かの後ろめたさがあった。そういう気持ちは、当時は解消すべきだと思っていたが、この後ろめたさを今回のような形で解消してしまったら、いよいよ私達は大手を振って子どもを手放すことに抵抗がなくなってしまうような気がするのだ。
そうなれば、保育園の数が増え、待機児童も少しは減るだろう。企業の「節電」も達成され、幾つかの問題は解決するだろう。
しかし、そうしてもらたらされる社会を、私は少しも良い社会とは思わない。