親への返礼は可能か

生まれて1ヶ月もない子どもを育てながら、さらに2人の子どもの世話をする。
つまり、3人の子どもの世話をしながら家事をする。


現在妻が行っていることである。


実際大変だと思う。子供を産んでからまだ日も浅いし、体も痛そうである。


私も、こういった状況を指をくわえてみているわけではない。夕方には定刻に帰宅し、素早く私のできる限りの家事を淡々とこなしていく。食事は実家の母に頼んで作ってもらう。幸い距離は近いので、継続的に作って持ってきてもらうことが可能である。


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こういった状況から一段落すると、「お世話になった人たちにお礼をせねば」という負債感を払拭するための行為が行われるのであるが、常々思うけれど、これ結構難しい。


実は、自慢じゃないけれど、私は善意の人たちの巡り合わせがよい方である。
嫌みな善意の人ではない、ホントに善意な人である。


だから、こういった善意の人たちへ返礼をしようとすると、逆に怒られたりする。
理路としては「私は、そんなつもりで(高い見返りを求めて、あるいは高くなくても)あなたに善を施したのではない。だから、返礼(もっぱら僕の負債感に見合った返礼)は、筋違いである」というものである。


もっともなことである。実際、この理路でもって怒られたことがある。でも、そのときは怒られて当然というか、こちらからうっかり「お礼は何がいいかな?」とか聞いちゃったので、そう言われたのであるが。


しかし、その失敗から推測しても、助けてもらった人たちへのお礼というのは、それでいて難しいことである。
お礼をしないわけにはいかないし、かといってこちらの負債感にあった、例えば高価なものを贈ったりすると、逆に上記のような気持ちにさせてしまいかねない。
特に親への返礼は、立場的にも返礼は不可能ではないかと思うほどである。とうのは、親になってわかったけれど、親というのは構造的に子どもに与え続ける立場であり、そもそも返礼など求めていないからである。これはおそらくいくつになっても変わらないのだろうから、わが親たちも私の返礼に対して、一様に戸惑った態度をとるのである。


この、「親に対する返礼の不可能性」について、私はかなり長い時間考え続けてきた。
どうしたら、私はこの返礼不可能性を越えて、負債感を払拭することができるのだろうと。


そして得た答えが、すなわち、パッサーになることである。「右から左へ〜♪」というやつである。
自分が受けた善を、同じ立場になり同じように施すことである。
これ以外に、私は親から受けたあらゆる無償の施しに対する返礼を思いつかない。


親がなぜ私の返礼に対して戸惑うのか。それは、私に善を施してくれる当の親も、先代から同じような施しを受け、その負債感をぬぐえないままに私たちに同じ事を行うことによって返礼をしているからである。


行っている施しは「贈与」の様相をしているが、じつは自分たちの親に対する「返礼」行為なのである。
こちらは私たちへの「贈与」だと思ってお礼をしなければと思う。しかし、当の親たちは自分たちが「贈与」をしているという感覚はない。だから、返礼をすると戸惑うのである。親は構造的に与え続ける立場だというのは、子どもに対するあらゆることが「返礼」だからである。


こんな事を書くと、世の親孝行な人々や子どもからの孝行を期待する親たちは怒ることだろう。贈与による親孝行は、先代の行為を贈与そのもので払拭できる程度であると宣言することだし、孝行を期待する親からすれば、見返りなどは返ってこないと言っているのだからである。
私はそういった返礼を、悪いことだと言っているわけではない。返礼が可能だと思えば、不可能ではないだろう。しかし、くどいが、返礼ができるということは、つまり「返礼ができる程度の施しであった」ということを言ってしまうことである。


今私が受け続けている親からの「贈与」は、施主への単純な等価交換だけは返礼不可能な、先代から脈々と続いている贈与のかたちなのである。そして、私はそれを次代へパスすることでしか「返礼」不可能なのである。