「良い負け方」を迫ること

若い人たちに、「良い負け方」を教えたい。課題を達成できなかったとき​に、変な言い訳をせず、今回は自分のここがあかんかったな、と次につながる回想ができるようになってもらいたい。

体調のせいとか​相手のせいとか教員のせいとか友人知人に呑みに誘われたせいとかにせず、それらもひっくるめて結局は自分の行為で回避できたはず​なら、自分が改めなきゃ、みたいに自分を追い詰めて欲しい。

確かに、人は「勝ったり負けたり」ではなく、「負けたり負けたり」する。
私も今までの経験の中で、負けた回数の方が圧倒的に多い。


「よい負け方」という考え方は、大切だと思う。


しかし、このエントリを読むうち、先生と生徒、師匠と弟子という関係性において、課題を達成できなかったということが「負け」にカウントされるということが、しっくりこないよなと思った。
筆者の言っていることはよくわかる。
自分が課題を達成できなかったときの言い訳をせずに潔く「すみません」というところに帰着して、そこから顧みてほしいということなのだけれど、それが「負ける」事とは端的に違うように思える。師匠が弟子に勝負を挑んでいるわけではないし、その逆でもないからである。


話が逸れるけれど、会社において自分の担っている事業の成果が芳しくなかったりとか、予定通りに行かなかったときにもこの「よい負け方」ができるときと、できないときがある。任された事業は、それなりに一所懸命したとしても、どうしても自分の努力では何ともしがたいことは存在し、それによってうまくいっていない場合もある。そこを「できていないではないか」ということで「よい負け」を迫られると、少なくとも私などは「うるせーんだよ」という返しになってしまう。


なぜか?それは「おまえに言われなくてもわかってんだよ、こっちはよ」ってことである。


こちとら、30年来負け続け、負け方はプロ並みなのである。
うまくいっていない時点で「あー、負け戦ね」ってわかっている。そこへ、安全地帯であぐらをかいているような何にもわかってないヤツから「おまえは負けている!けしからん」みたいなことを言われると、上記のような返しになるのである。


負け方がへたくそな人もいる。そういった勝負の機会が少ないと、そうなると思う。「良い負け方」には、それなりに稽古が必要である。指南する存在も必要だ。しかし、場合によっては「潔くなさ」が、本当に自分の力ではどうにもならないことに起因することも確かにある。そういう状況の人に向かってトドメを刺すと、刺された方は、改心するどころかやさぐれるばかりである。