わが子が障害児であるとわかったなら

胎児の染色体異常などを調べる「出生前診断」で、2009年までの10年間、胎児の異常を診断された後、人工妊娠中絶したと推定されるケースが前の10年間に比べ倍増していることが、日本産婦人科医会の調査でわかった。


14年前、大学のゼミで、障害児の親の心理過程を研究議論したことがあった。
ゼミでは必ず質問や課題を考えて発表するというものだったので、あるときこんな問いを考えた。


「もしこれから先に医療が発達すると、近い将来現在よりも高い確率で、出産する前に障害児だとわかると思うけれど、そうした場合、女性だったら産みますか?産みませんか?」


今考えると、完全に男目線発言であるが、当時この問いをゼミでしたとき、ゼミ生が絶句し、指導教官に失笑されたのを覚えている。失笑の理由は、「医療が発達しても、障害児を早期発見する確率は上がらないだろう」ということだった。
今、上述の記事を見て、それは教官の短見だったということかと思ったが、同時に指導教官の言いたかったことはそうではなくて、「その問いはタブーである」と言いたかったのかと思い返した。


あれから立場が変化し、子どもを実際に授かる立場になったとき、一抹の不安を抱きながら出産の無事を祈ることになった。自らの発した問いに、自ら恐怖したのである。
もし、生まれてくるわが子が障害児であったなら私はどうするだろうと、子どもを授かるたびに考えた。そして、正直な気持ちとして大きな障害もなく安産で生まれてくれたことに、深く感謝している。
実際、障害児だとわかったとき、私がどんな判断をするかはわからない。私一人では決められないし、もっともダメージが高いのは妻だからである。


私にとって確実なことは二つある。まず、障害児ではなかったということに安堵した私は、仮に障害児として生まれてくるであろうわが子がいたとしたら、共に不幸であろうと考えているということである。もう一つは、こういった問いを無邪気に口にした学生当時とは心境が激変し、この問いを意識することすら、すごい力でブレーキをかけていたことである。
なぜこの問いを発してはいけないのかは、よくわかっているつもりである。そして薄々、この問いのはっきりした答えを私自身は持っていることに気づいている。しかし、それを口にすることも、文章にすることも、かなり強い抑圧がかかっている。
それは、どちらの答えを口にしても、私は地獄を抱えざるを得ないことを、フィジカルに感じ取っているからだと思われる。