不良の凋落とヤンキーの勃興

 ところが最近、昔なら考えられなかったような風景を見かけるようになってきました。「親子揃ってヤンキースタイル」「親もヤンキー、子どももヤンキー」――そんな人が珍しくなくなってきたのです。


ヤンキーもオタクも、外見からして反社会性としての記号的意味を持っていたのだけれど、現在はその記号の意味が変わってしまい、反社会的記号から、より小粒のファッション記号になってしまったんだなぁと、実はわりと前から思ってました。(笑)
以下はヤンキーの話。


「ヤンキー」という定形がなかった頃、まだそれは「不良」や「ツッパリ」と呼ばれていて、どういった振る舞いが不良であるかということを模索する時代があった。外見はともかく、その中身をいかに不良にするかということが、「不良」という文化を作り上げていた。
ところが世代を追うごとに、「不良」が定形性を帯びてきて、形骸化が進んできたのが今の状況ではないかと思う。
どの時点から定形性を帯びてきたかと思い返すと、例えば横浜銀蝿とかビー・バップ・ハイスクールとか、メディアに大々的に「不良・ツッパリとはこうである」と強烈なメッセージを送った頃ではないかと考えている。「不良ってかっこいいだろ?」というメッセージを、音楽をすることによって、あるいは映画やドラマにすることによって発信していた。
そういったことや、「不良」「ツッパリ」を支えてきた中高生のめまぐるしい世代交代を経て、不良やツッパリの文化は形骸化していったのだと思う。


こうして形骸化して、垢抜けた時に現れた概念が「ヤンキー」であるのかなぁと思う。


「不良」や「ツッパリ」という言葉の概念を、肌で感じていた私からすると、「ヤンキー」という言葉は、「不良」や「ツッパリ」という言葉の持つ反社会性が薄まった、あるいはほぼなくなったような感じを受ける。だから、格好は「不良」であるが、中身は良い子であったり普通のおっさんだったりという、私にとっては歪んだ様相のものが「ヤンキー」ということなのである。
もはや「不良」は、「ヤンキー」になることによって反社会的記号の意味を失ってしまったということである。
昔「不良」だった人が、「不良」のまま(反社会性を保ったまま)年令を重ね、その子どもに「不良」という反社会性が受け継がれるというのは誠に合理的継承の形であるけれど、実際あまりそういったことが起こらないのは、すでに「不良」という反社会的カルチャーはもうなくなってしまったということだと思う。


ヤンキー先生」は、「不良」である。現在そうだといっているのではない。そうではなくて、彼は学生当時、「ヤンキー」ではなく「不良」であったはずである。
ヤンキー先生」が「(昔)不良先生」と呼ばれなかったは、もはや「不良」という言葉で表現されることはほとんど消滅してしまっていて、残りの部分は「ヤンキー」というファッショナブルな言葉でしか代価できなかったということではないかと思う。


「不良」を賛美しているわけではないけどね。