情報処理と記憶の限界

わが社の意思伝達は、もっぱら決裁行為が取られており、案件について閲覧した場合に印鑑を押す様式となっている。
他の会社ではどのような方法が取られているのかは存じ上げないのであるが、わが社は官公庁と同じ方式である。


でもこれって、昔からちょっと疑問がある。


実際行われている、ラインによる書面決裁は非効率的だけれど、意志の伝達方法としては手堅いことは確かである。実際に伝えられるべきことが物体化し、時間を問わずに読むことができるからである。
でもこれは、所詮はそういう意思伝達方法で処理できる総量の限界値以内に収まっている場合であって、情報量が閾値を超えると、人間の抱えられる問題を越えてしまうと思うのである。


情報化が進むことと、人間がストックできる問題の量が増えることは相関関係はない。個人が抱えられる問題は、おそらくほぼ一定であり、情報化によって増えた情報量をカバーできない。情報化によって総量が増えて、とても人間がストックできる量を超えてしまったのである。
情報化を工夫して、電子データにしてコンピュータがその肩代わりをしてくれれば良いのだけれど、それでも、人間が抱える情報量は増え続けている。


旧来から行っていることをそのまましているだけでも、実は情報量の総量は増えている。
事業の細部を把握するための手軽で迅速なツールであるPCがあるからである。前まではいらなかった情報を、PCがあることによって必要になってしまったのである。
情報を細かくして、詳しく知ることができるようになったと思うのだけれど、実際のところ余分な書類が増えただけで、以前と何も変わらない。ただ、受けた人間が混乱しているだけである。情報処理能力は以前と変わらないからである。


つまるところ、この「情報過多による混乱状態」が「わかった」気を発生させているだけで、ひとつとして吟味されないままに、ことが終わっていくのである。そしてある日問題が起きたときに「印鑑が押してあるので閲覧済みだろう」という馬鹿げた理由で、記憶もない責任を負わされるのである。
情報量として既にオーバーフローなので、そのような細かな記憶まで維持されていない。
そういった構造で事業を進めていくこと自体が、土台無理な話なのである。


そこから問題を考えると、いつかは書面決裁にすべきこととそうでないことを選別する必要が出てくるのではないかと考えていた。
しかし、その方法しか知らないものとしては、この檻から出られる方法などわからないし、檻があることすら知らずにいなくなったものたちもいるので、ここに記すのである。