暴走族とギャングのエクリチュール

【動画あり】暴走族とギャングの忘年会ヤバ過ぎワロスwwww−にゅーすAtoZ


暴走族の言葉と、ギャングの言葉を聞いていると、単語が本当に差別化されていて、聞いただけでそれとわかる言葉なんだなと思った。
暴走族さんたちは、これまで脈々と創り上げられてきた「暴走族エクリチュール」を正しく使っており、ギャングさんたちも同様に、日本での文化深度は暴走族に比べて浅いけれど、やはり「ギャングエクリチュール」を忠実になぞっている。
例えばリーダーのことを「プレジ」と言ってみたり、ギャングがうっかり「夜露死苦」と言わなかったり。ちなみに「プレジ」はおそらく「President(頭取)」の略であろうけれど、ギャングにしかわからない略語を使うということは、ギャル語などと同じように、排他的に機能するような言葉遣いを使うということなので、およそ学生運動で取られた態度と変わらない。
どこまでいっても、私世代以降から考えだされたことは、既に先行世代によって使い倒された、手垢のついたものばかりである。


暴走族、ギャングは、私の妄想かもしれないけれど、体制への反旗として存在しているのかと思ったけれど、そうじゃないのかね?もう古いのかこの考え方が。
彼ら自身は、動画でもあったように、自分の好きかってやったり、己の選んだものを「頑張ったり」すると言っている。自由だと思ってるけど、確実にそのカテゴリから出ることはない程度に自由であり、反社会的であるにもかかわらず「頑張っている」のである。
そして、彼らの振る舞いは、これまで既に語られ表現されてきた、手垢のついた暴走族像、ギャング像であることに、きっと街で会えば怖い人達なのだろうけど、どこか滑稽に思えるのである。


これは一体どういうことなのだろう。


暴走族もギャングも、こうしたテレビに出てしまうことによって、アンダーグラウンドから掘り起こされ、その過程においてデフォルメ化、キャラ化してしまったといったら安易だろう。安易だけど今それしか思い浮かばない。
良くも悪くも、テレビはスポットライトである。それを照らしてしまうと、そこしか見えない。そこしか存在しないように見える。
動画の彼らも、本当はここではないどこかで出会えば、あんな子どもみたいな取っ組み合いじゃなくて、殴り合いをしているだろうし、蹴っ飛ばして金ぶんどったりしてるかもしれない。
でもそれをしないのは、テレビのスポットライトによって、そういった邪悪さを抜かれてデフォルメ化され、差し出されているからである。
だから、ここでテレビに映し出されているデフォルメされた暴走族やギャングが、影響が大き過ぎて、少なくともそういったカルチャーにリアルに触れたことがない人達には、リアルなイメージとなるのである。
デフォルメ暴走族、デフォルメギャングが、リアルなギャング像として逆転した結果が、今の状態なのである。


テレビに出ることによって、わかりやすくなるが、どこか滑稽というのはこういうことである。