意識と無意識のあいだ

フロイトによって発見(発明?)された無意識は、どんなものであるのかは不明のものである。
発見された無意識とは、人間には光が当たらない部分があって、決して自覚することのない部分ということだ。言葉にすることはもちろん、記号化することが不可能なものが自分の身体には存在する。そして、実はそれによって私の身体は律されている。


感情はそれ自体が無意識からのメッセージのように取り扱われることがある。感情的とは、つまり意識的な感情の意識的コントロールから脱したことを言う場合が多い。もし、感情が無意識のもとでの営為であるなら、感情表出は意識的なものではないことになる。


これは本当だろうか?


仮に、世界の人々が死滅して自分一人になってしまったとき、その絶望感をやはり人は頭の中ででも「絶望」という言葉にするなり、あるいはものに当たるといった行動をするはずである。純粋な「絶望感」などは存在しない。絶望感という言葉を正体不明のものにつけただけで、それが「本当の絶望感」であるという証明はできない。私たちは己の内にある正体不明のものを、言葉を使うことによってしか自覚することができず、行動に表すことによって事後的にしか自分の感情を自覚し得ないのである。
言葉も行動も、意識的に行われることであるから、全ての表出は無意識でなされない。無意識がもしあるのならば、そこで発生した正体不明のものを、意識が言語や行動を選び取って表したということである。


話を戻すと、感情的になることは己の無意識が解放され、意識的コントロールから脱したわけではなく、やはりどこまで行っても意識の範疇なのである。喜怒哀楽は、正体不明を意識が表すための手段であって、そこには個人の嗜好や傾向が必ずあるということになる。
例えば、怒りっぽい人が常に怒りの感情表出について開放的であるように、その人の得意な感情表出方法が存在する。それは、無意識的に怒りっぽい訳ではなく、やはり本人が意識的にその方法を選択している、あるいはその表出方法が得意ということになる。


そんなことを考えていて思ったこと。
「意識」と「無意識」の境界は、そんなにハッキリと分かれていないのではないか。
意識も無意識も同時に介在する、夕闇があるのではと。


例えば、理由はわからないけど言ってしまった言葉とか、どうしてあんな事しちゃったんだろうとか。
表出は意識的だが、その根拠がどうやら無意識にあるのではないかということがしばしば存在する。


そう思うと、自分が自覚できる意識的な行動というのは、実は全ての行動のほんの一部ではないかと思うのである。
最近あまり言われないが「自己責任」とか「自己実現」とか、現代思想は人間は常に明るく意識的であることを前提としているが、そんなことは全くなく、本当は無意識や夕闇が、意識が想像もつかないような秩序で行動を促しているのかもしれないし、私たちの意識はその無意識のルールすらわからないのである。