誰のためでもない成熟

そう思うなら、「成熟なんて要らない」なんて言ってはやっぱりまずかろう。誰かが「成熟」を、せめて「成熟した態度」を引き受けなければならない。自分達より若い世代のために。

ブクマコメントを見ると、「そうはいっても現在の日本にそんな人いるのかね」とか、「おまえが成熟しろ」という趣旨の事が書かれていて、筋違いじゃないかなと思うものがちらほらあるのは仕方のないことだけれど、p_shirokuma氏のエントリの趣旨は、「成熟した年長者が減ると、どんどん成熟する人は減っていきますよ」ということだと思う。


同意である。


やっぱりどう考えても、社会には成熟した人が少しでもいないと困る。
そして、成熟した人の割合が現在よりも少なくなっては困るのである。
成熟した人が、全くいなくなっちゃったら社会は成立しない。
問題は、では成熟した人が一体どれくらいいたら社会は「なんとか」機能するのか、ということである。


内田樹氏はブログで、成熟を妨げているのは資本主義だといっていた。なぜなら、人が成熟しない方が経済は良く回るからである。構造的に資本主義は、人間が成熟しないことを望んでいるのである。
だが、一方で資本主義が成立するためには、やはり一定数の「成熟した人」が必要なのである。消費主体が望むものを製造する労力を惜しまない人がいなければ、資本主義は成り立たない。

でも、「システム」の補修や再構築や管理運営は「子ども」には任せることはできない。
「ここ変だよ」といくら叫び立てても、機械の故障は直らない。
故障は「はいはい、ここですね。ではオジサンが・・・」と言って実際に身体を動かしてそのシステムを補修することが自分の仕事だと思っている人によってしか直せない。
現代日本は「子ども」の数が増えすぎた社会である。
もう少し「大人」のパーセンテージを増やさないと「システム」が保たない。
別に日本人全員に向かって「大人になれ」というような無体なことは言わない(そういうめちゃくちゃなことを言うのは「子ども」だけである。「大人」はそんな非常識なことは言わない)。
まあ、5人に1人か、せめて7人に1人くらいの割合で「大人」になっていただければ「システム」の管理運営には十分であろうと私は試算している。
今は「大人比率」が20人に1人くらいまで目減りしてしまったので、この比率をもうちょっといい数字まで戻したいだけである。
「そういうのだったら、それやってもいいです」という奇特な方が若い人の中から少しばかり出て来ていただければ、それで十分である。

p_shirokuma氏はさらに、「成熟した人」ではなくて、もうすこしハードルを下げて、せめて「成熟した態度」ということを書かれている。でもこれはそれでよいと思う。
誰かがその人を成熟していると見なすのは、その人の行いや態度であって、成熟した何かを持っているということではない。例え自分が成熟していると考えていても、自分がその態度を外部に示さなければ、自分が成熟しているかどうかわからない。その人が成熟しているか否かは、外部に示されたその人の行動を評価する他者が存在しなければならないのである。
だから、成熟とはその人の行動への外部評価なのである。


では、何をすれば成熟した態度なのか。
私は、それは自分以外の他者のことを考えることではないかと思う。