北斗神拳國體論

漫画「北斗の拳」を久しぶりに再読。
私の青春時代は、北斗の拳と共にあったので、読んでいると当時の記憶が蘇ってくる。
その「北斗の拳」を今改めて読み返して思ったこと。


ここには日本人が戦後やり残したことが滔々と描かれているように思われる。
というか「北斗の拳」の話型は、これ以降から今日まで数多あるし、敗戦日本のメンタリティはどの作品からも読み取ろうと思えばできるので、これを指摘することはあまり意味がないけれど、せっかく思いついたのでここに記したいと思う。


思ったのは、北斗の拳は、戦後日本が護れなかった「國體」の話ではないか、というものである。


國體は、日本が昔から脈々と受け継いできた(とされている)もの、それを私は天皇による統治だと思っているが、戦後、天皇人間宣言によってそれは崩壊する。
天皇制は「一子相伝」の物語であり、それを結果破壊したのはアメリカであった。この出来事を、当時の日本人が正確にどう思ったかはわからないけれど、北斗の拳から伝わることから察すると、あまりに手酷く戦争で負けすぎたので、國體の崩壊をうまく整理できてないのではないかと思うのである。


北斗の拳に登場するケンシロウは一子相伝北斗神拳伝承者、つまり北斗神拳は「國體」なのである。
その國體たるケンシロウに、様々な相手が向かってくる。その最初の巨人が北斗の長兄ラオウであるが、ラオウは戦後國體を破壊したアメリカなのである。
ラオウ(アメリカ)は、そのスーパーパワーで世紀末覇者を目指し、やがて國體たるケンシロウを脅かす。覇者は常に一人だからである。
そしてケンシロウラオウを倒すことによって「國體は護られた」という、当時護れなかったことを物語で実現しているのである。


國體を脅かすものはラオウだけではない。


次に登場するのは、北斗琉拳という北斗神拳のダークサイド。拳も体制も北斗神拳そのものなのだけれど、北斗琉拳は「海を越えた」「数多の流派が混在する」「修羅の国」に存在する最高峰の拳法として語られる。


北斗琉拳は、もう一つのスーパーパワー、中国であるというのが私の見立てである。


中国は多民族国家であり、統治は必ずしも安定はしていない。失政すれば政体が崩壊するかもしれないという不安定を状態的に抱えている、大袈裟に言うと「修羅の国」なのである。


北斗琉拳は、日本から見た中国なのである。そして、北斗琉拳ケンシロウにとってルーツであると同時に、脅威な存在である。(ケンシロウ修羅の国出身である)
北斗琉拳は、日本が抱いている、できれば避けてとおりたいスーパーパワーの中国感をそのまま表しているように思われる。反面、拳の名に「北斗」を冠しているところで北斗神拳(つまり日本)が北斗琉拳(中国)を同胞として考えているように思われる。


ラオウ(アメリカ)を倒し、北斗琉拳(中国)を倒すが、物語はここでは終わらない。


今度は後継者を誰にするかという物語になるが、この章はつまりケンシロウとは何者だったかという物語なのである。
ここではラオウの子リュウが登場してケンシロウと旅をする。
この頃になるとケンシロウという國體の権化は外敵から脅かされることはなくなるが、最大の危機であるケンシロウが記憶をなくすという「國體が國體たることを放棄する」(最終的には思い出すけど)自らがこれまでの伝統を放棄することが起こるのである。


この頃の日本はバブル期であり、また昭和天皇崩御の年でもある。これまでの日本を忘れてしまって、平成という新しい区切りを迎えた時期と、ケンシロウが記憶をなくす時期は一致している。
このことからしても、ケンシロウが國體を表しているように思われる。そしてラオウの実子リュウは、本当は敗戦日本が欲望した新しい時代の象徴なのである。


以上が、私の「北斗神拳國體論」である。愛ゆえに考えついたハッタリである。