「過去」は存在するのか

世界五分前仮説(せかいごふんまえかせつ)とは、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説のこと。

世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである

世界五分前仮説—ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)

この胡散臭いが、私にとって秀逸な仮説に出会ってから、ずいぶんと時間が経ったのだけれど、これほどスポットオンな言葉はないと思うので、ここに記す。


私はずいぶんタイムマシンのことを考えていた。映画のバックトゥーザフューチャーが好きだったので、どうにかしたら過去や未来にいけるのではないかと思っていた。しかし、未来はいけるかもしれないが、過去は無理だと最近考えている。

なぜかというと、未だかつて「過去」を現在から見たものは誰もいないからである。
つまり、「過去」というものが存在するのか怪しいと思ったからである。
「世界五分前仮説」が否定できないものであれば、「世界無過去仮説」も否定できない。私たちは、現在が自分が思っている絶対的な真実としての「過去」と無関係であるということをどうやって否定できるだろうか。


私たちは、現在という刹那な空間を生きており、過去も未来も手に取ることは不可能である。手に取ったと思ったものは、実は「現在」である。過去は過ぎ去ったものであり、未来は未だ来たらざるものである。だから、未来も過去も誰も手にできない。

では、巷に溢れている「過去」とは何か。
それはただの人の「記憶」であり、「物語」である。
絶対的真実としての「過去」は存在しない。過去は人の「記憶」なのだから、人の数だけ少しずつ形を変えて存在するからである。


例えば歴史的な過去の検証などは、いかに物理的な物証や古文書などで真実だと思っていても、その時代を現在として体験しない限り、それが起こったのかどうかなど認知不可能である。また、仮に体験できたとしても、人によって捕らえ方はまちまちなので、「これが正しい過去である」というものは存在できない。
私たちは、既に過ぎた過去を「あるもの」として見なすので、あたかも物理的なもの(変化しないもの)と考えてしまうが、過去も未来同様、常に流動している。


ただ、ここで私が記したいのは、「過去なんてないんだよ」という、いきがったことを言うためではない。
過去の正体が「記憶」であるなら、絶対的真実としての「過去」は存在しないが、人間一人ひとりには確かに「過去」は存在するということである。


「過去」とは、人を通してしか認知し得ないとても脆弱な存在である。


もし、私が誰にも見られずにトイレに1万円札を流してしまったとしよう。私は確かに流したという記憶を頭の中で反復することで、私にとってそれは紛れもない「過去」として体験することができる。しかし、私がこのことを他人に言わない限り、巷で言われている「過去」として、このエピソードは存在できない。そして、私がその1万円札を忘れてしまった時、絶対的真実であることの「過去」は、跡形もなく消えてしまうのである。
こんなことは日常茶飯事である。しかし、そうであるが故に意識されない。


「1万円のことを忘れても、過去に流してしまったことは事実だろ?過去は存在するじゃないか」
とおっしゃる方もいるだろう。では、私が1万円を流してしまったことを誰にも言わなかった時、この問は発生するだろうか。私自身が語らずして誰がこの事実を認知できるだろうか。


それを語る者がいなくなった時、「過去」は消滅する。はじめから語られなかったことは、既に「過去」として存在することすらできない。
もし己の「過去」を現在に存在させようと考えるならば、他を介する以外に方法はないのである。