川端誠「なすの与太郎―野菜忍列伝〈其の3〉」を読む

なすの与太郎―野菜忍列伝〈其の3〉 (野菜忍列伝 其の 3)

なすの与太郎―野菜忍列伝〈其の3〉 (野菜忍列伝 其の 3)

これは絵本なのだが、内容が素晴らしかったので、ここに記す。


なすの与太郎は、弓の名人である那須与一の末裔という設定で、伝説の弓士である。
この本はその伝説の弓士が自らの武勇伝を語るという形で話が進んでいくのだが、素晴らしいのが、このお話が単なる武勇伝の域を超えて、「武道を極めるとはどういうことか」というその果てを簡潔に語っていることである。


というかこの話は、中島敦名人伝」の天下第一の弓の名人、紀昌の話そのままである。

或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行つた所、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしても其の名前が思出せぬし、其の用途も思ひ當らない。老人は其の家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用ひるのかと。主人は、客が冗談を言つてゐるとのみ思つて、ニヤリととぼけた笑ひ方をした。老紀昌は眞劍になつて再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた樣子である。三度紀昌が眞面目な顏をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顏に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎(じつ)と見詰める。相手が冗談を言つてゐるのでもなく、氣が狂つてゐるのでもなく、又自分が聞き違へをしてゐるのでもないことを確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。
「ああ、夫子が――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓といふ名も、その使ひ途も!」

紀昌のお話は、趙の弓士である紀昌が弓を極めるのだけれど、最終的には弓のことをすっかり忘れてしまうというお話である。ただ、紀昌の場合は自ら断つというよりも忘却してしまっているという感じがするので、なすの与太郎とは少し違うのだけれど、達人に至る流れと、最終的な武術の扱い方は、同じである。


さて、「なすの与太郎―野菜忍列伝〈其の3〉」で一番グッとくるのが、ほとんど鬼のごとく弓を極めた与太郎が、弓矢と奥義の巻物を燃やしてしまうところである。それは、与太郎にとっての重大な転機なのだけれど、武器や巻物を燃やしてしまうことで、必ずしも与太郎は武道を外れるわけではない。むしろそれを起点として、武道家(忍者かもしれないけど)としては、最強になった瞬間なのである。
中島敦名人伝」の紀昌も、なすの与太郎も、伝えていることは同じである。端的に言ってしまうと、極めた弓を射ずとも災いが起こらないことが武道としては最強なのではないのか、ということだ。そして、それこそが現代武道が忘れてしまったことでもあると思うのである。