他人の中の私

今朝方ひらめいたこと。


他人の中にはもう一人「私」が存在しているのではないか。


正確には他人が思い描いている私のイメージは、明らかに自分とは別のものなので、例えば相手と会話をする場合でも、私が話したことを、相手は虚心坦懐聞いているわけではなくて、相手の中の私のイメージ(或いはもっと構造的な私)をフィルターとして、私の話を捉えているのではないか。


平たく言うと、自分は相手からどう見えているのかということなのだけれど、私の考えはもっと輪郭がはっきりしていて、相手と出会った時から相手の中にはもう一人の私が形成され、日を追うごとにそれははっきりしていく。そうして現れた「もう一人の私」は相手が自覚するしないに関わらず現前する。


これは実際に人とあわなくても成立する。
例えば、ある著者の本を読むことでもそうしたことが起こる。
本を読むことは、著者の言葉を自分の中で反復することだけれど、反復しているその言葉は自分の中の著者が読み上げている。
自分自身が読んているということも言えるけれど、それは自分か使っている語り口とは別の形で語られているので、自分の中で聞こえている言葉は、自分だけれども自分ではない。
本を読み終えた時、そこに語られている言葉をたどって、著者は読者の中で現前する。それは、本によって異なる形を取るけれど、読んだ後に自分ではない何か別のものが自分の身体に住まうことになる。それが、もう一人の著者なのである。


他人の中の自分は自分にとってどういった存在なのか。
他人の妄想する私のイメージなのだから虚構ではないか、ということもできる。
しかし、他人の中の私は、時に私を飛び越えて他者に話しかけ、他者と会話をし、少なからず思考に影響を与えているはずである。そのような存在を、虚構として無視することはできない。


私を越えて存在する私。その私は、確実に他者の中に存在している。


実際に、他人の中にいる自分がどんな人間なのかを知ることは、言い換えれば、他人が私のことをどう思っているのかを探ることで、もう一人の私の輪郭を知ることができる。同時に、他人の中に住まうもう一人の私を、どうにかすることができた時、他者に影響させることができるのではないか。或いは、「他者と私」という関係性を変化させることができるのではないか。