AKB48-1を考える

私はAKB48に全く興味がない。総選挙もジャンケン大会も、開催されていることは知っているが、テレビで見たり結果を気にしたりということは全くない。
それでもAKB48はメディア露出が凄まじいので、何がしか生活していると、どこかにいるのである。


前田敦子さんが卒業したという事も最近知った。


ただ私の勘違いで、実はもうとっくに3月の時点で卒業したものだと思っていたのである。だから、CMなどで出演しているのを見るたびに、「あぁ、もうこの子はAKB48じゃないのだなぁ」と思っていたのである。
ところが、9月になって「卒業」騒ぎをしているので、「あれ?おかしいなぁ。こないだ卒業したのではなかったのか?」と、おっちゃんは思っていたのだが、実はそうではないということを最近知ったのである。


それくらいAKB48は、私の中ではまさしく他人事なのだが、そんな私がなぜ全く知らないAKB48について書こうと思ったのかというと、通勤途中の駅に巨大なAKB48のパチンコポスターが貼られていたからである。


そこには前田敦子さんも写っている。しかしさすがにおっちゃんは騙されない。
もう卒業したでしょこの子。なんでAKB48のポスターに写ってるの?


そしてハッとしたのである。
畳にして四畳はあるだろうこのポスターに写っている前田女史は、もうすでに卒業してAKB48ではないが、現に「ここ(ポスターだが)」に存在している。今のAKB48は、前田敦子という欠損を抱えてというか、むしろその欠損感を表に出しながら活動しているのである。
メンバーの卒業は、これまでのアイドルグループにもあっただろうと思うのだが、私がこんなことを考えたのは、きっと「前田敦子」という存在がAKB48にとって、実は圧倒的な存在だったということなんだと思う。だから、前田敦子を失ったAKB48というのは、もはやAKB48ではく「センターのぽっかりあいた昔AKB48であった集団」なのである。


そういう意味では、駅に貼られているAKB48のポスターは正しい。前田女史が写っていることで、それはAKB48だからである。
しかし私は、その巨大なポスターを見るたびに、なにかもののあわれを感じるのである。
もうそこにはないものを存在しているかのように見せることで、何を言いたいのか。そんなことを考えてしまったのである。


やはりこれは、AKB48は「前田敦子をセンターとしたアイドル集団」であるというメッセージではないだろうか。そしてもやはここに定義されているAKB48はこの世には存在せず、今まさしく新しいAKB48を定義しなければならない時期なのだということである。


AKB48であるが、そうではない存在。
日本は「襲名」という文化があるので、こういう感覚はそんなに違和感がないと思うけれど、皆さんはどう考えているだろう。やはり、今のAKB48はこれまでのグループと同じだろうか。