福祉と「仲良く」の私的現状

「教育」の世界の<なかよし>は、子供がやらねばならん目標。
「福祉」の世界の<なかよし>は、ケアされる立場の利用者の目標には、けっしてならない。

そこがちがいますねえ。


やはり、学校は、「福祉」でやる、という具合に、変わりませんか。


「福祉」概念が使う人によって違うということはarigato3939さんも別なエントリで言っている。
なのでここは、私が普段福祉を仕事柄眺めていて思った「福祉」と、全然畑違いの教育を私が述べたらどうなるかを記したい。


福祉業界側から見ると、福祉も「教育」における<なかよし>をしている場合がある。福祉事業の目的は「自立」だったり「自活」だったりする。「自分でできるようになる」というのが目標だったりするので、あるところではやっぱり「やらねばならん目標」なのだ。
arigato3939さんが言っていることもよくわかる。例のケアハウスの床屋さんも実際にありそうな話だが、それは福祉職場のあり方がそうなのであって、福祉の担い手と利用者との間には、やはり教育と同じ<なかよし>と「目標」が蔓延っていると思う。


例えば、リハビリや在宅福祉という概念も、必要なサービスを受けながら「自立」せよという要請であり、利用する側の目標設定がされている。
保育園も実は「福祉」カテゴリなのだけれど、本来保育園は自営業や共働きで子供を日中見ることがでいない家庭を対象にしている。だから、日中家庭で見ることができれば保育園は卒業しなければならない。幼稚園にはそれはないはずである。だから保育園は「福祉施設」であり、普段忘れているだろうが「最終的にはここから自立してください」という目標が設定されているのである。


福祉に通底している基本概念はだから「自分の住んでいるところで自立して生活してください」なのであり、利用する人に設定された目標なのである。ただ、叱られないのであまり実行されていないけれど。そして福祉の職場ではおそらく教育の職場ほど目標に過敏ではないと思うけれど。


そんな福祉の立場から教育現場を見ると「そこまで頑張らなくても」と思うところがある。なかよくしないと叱られるとか、順番にきちんとしましょうとかそういう空気は福祉にはあまりない。arigato3939さんが述べているように、福祉と教育の基本的な違いは目標に対するマインドセットなのではないかと思う。あるいは、目標達成の射程の違いではないか。
学校教育は目標設定をその学年とか学期というように短期設定しているのに対して、福祉はその人の生涯が目標達成期間だったりする。目に見える目標達成期日とあるかどうかわからないような期日では、同じ目標を立ててもそれに対する意気込みは違うだろうと思う。教育現場の「叱る」という行為は、焦っているのではないだろうか。


しかしながら自分の子供たちを見ていると、やっぱり教育のように仲良くしないと叱られるという空気も必要なのではないかと思うときはある。「仲良く」ということを言葉にしないと、教育現場は今よりももっと悪くなるのだろうと思う。子供を見ているとだいたい喧嘩しているし、ものを譲らないし、自己利益を最優先する。周りを見て行動する子など稀だと思う。そんな中で、「仲良く」ということをねじ込もうとすると、それなりに語気を荒くしないと伝わらないように思う。でもそれには前提があって、「なぜ先生はあんなに荒々しく仲良くしろというのだろう」という問いが、各子供たちに立ちあらわれないと意味が無い。それが難しいと思う。


ちなみに、私はよく近所の子供と自分の子供を遊ばせるついでに遊ぶのだけれど、仲良くしろというのは結構クドく言っている。それは目標ではなくて、近所に住んでいる仲間として仲良くしないと子供たち自身が地元で困るからそう言っている。やらなければならない目標だが、短期的達成目標ではなくて生き方としてそうしないと駄目だぞという感じ。しかしこの説得方法は教育としてはあくどいように感じるが(笑)。