隣の家と僕

先週、隣の土地に建っていた古家が取り壊された。築30年以上の平屋の古いその家は、ほとんど人が住んだことがなかった。
取り壊しはあっさりと終わった。木造の家は2日もあれば跡形もなくなってしまう。僕は気鬱になった。理由はわからない。


僕が生まれてからこの地に暮らし始めた時、その家はすでに隣にあった。
僕ら家族の家ではないけれど、垣根もない隣家は、なんだか自分の家のようだった。
借家になっていて、人が住んでいたこともあった。その間でも、なんだか家族が増えたみたいに感じるほど、隣の建物は僕の暮らしの身近にあった。


暮らし始めてから10年ほど経った頃、隣家は空き家になった。
その頃、両親は手狭になっていたワークスペースを補うために、隣家を借りることにした。そうして、隣家は生まれて初めて僕らの家になった。


隣家は僕らが住んでいた家と同じ間取りだった。区画整理で切り取られたその土地には同じような家がまず建てられた。僕らの家も例外なくそうだった。隣家は、僕らの遊び場になったり、勉強する部屋になったり、親戚が一時的に住む部屋になったりした。集会所になったりもした。


20年ほど経った時、僕らは近所の別の土地に引っ越しをすることになった。
今まで住んでいたところから5分ほどのところに土地を買い、家を建てて引っ越しをすることになったのだ。
僕は、暗鬱な気持ちだった。理由はよくわからない。古家だったが、今まで人生を共にした家と今生の別れをしなければならないことを、受け入れられなかったのかもしれない。
引っ越しをしたと同時に、隣家とも別れを告げる事になった。


僕が今まで住んでいた家と隣家は、空き家として存在し続けた。


5年前、僕はまた帰ってきた。生まれてから住んでいた家を壊し、新しい家を建てて住み始めたからだ。
家を壊すということは、あまり気持ちのよいものではない。そこに新しい家を建てることが決まっていたとしても、やはり自分の体の一部がなくなってしまう感覚になる。引っ越しをする前に住んでいた家も、壊してしまうのはあっという間だった。何の変哲もない平屋の古い家。でも、僕にとってはかけがえのない家だった。


隣家は、僕が5年前にしたことと同じく壊された。
壊した人にとってはただの平屋の古い家だろう。でも、僕にとっては思い出の詰まった古い家だ。


どんなものにも終りがある。僕がどんなに願っても、僕の記憶のままでいるものなど、何もなかったんだ。そのことを本当に納得できるのは、いったいいつになるのだろう。