燈明を灯す

昨日、同僚の死の知らせがあった。以前から体調がよくなかった。そのせいで退職し、自宅で療養しているところまでは知っていた。だから突然というよりも、来るべき時が来たという感じだった。


連絡をもらった時、次の日が告別式だということも聞いた。でも、どうやら生前本人が家族に「家族葬にしてほしい」と言っていたようで、最初は行くつもりだったけど一晩考えて、行くことを諦めた。わざわざ家族葬にしてほしいというぐらいだから、あまり気を使わせてもいけないと考えたからだ。でもこれは、同僚が最後に残した僕らへの難問だった。


結局、私は告別式に行くことはしなかった。風邪を引いていたということもあったし、何より故人の意志を裏切りたくはなかったのだった。でも、これから旅に出る同僚に「何かしてあげられないだろうか」とは思っていた。


ちょうど告別式の出棺時刻ごろ、私はおもむろに席を立った。かつて同僚と過ごしたビルに行くことにしたのだ。自分から行こうとした、というのではない。それはまるで、自暴自棄になった自殺願望の人間が、死に場所を探しに行くような気持ちに近いのかもしれない。地に足がつかないような、そんな足取りで歩いて五分ほどの職場に向かった。


その建物は、驚くほど昔と変わらなかった。そういえば最近来ていなかったが、それにしても同僚と過ごしたそのビルは、変わらずに残っていてくれていた。
私は二階にある事務所の階段を、十年前と同じようにゆっくりと上がっていく。古い木製の扉を開けると、今も使われている事務所に今の人達が働いていた。私は小さく挨拶をして、同僚が座っていた場所に腰掛けた。昔と随分眺めは違うが、何も変わってないところがほとんどだ。席を立ち、チラリと倉庫を覗いたり、打合せに使っていた部屋を覗いたりして、同僚と過ごした時間を思い出していた。
そうしているうちに正午になった。ふと思い出した事があった。同僚は職場の近くにある喫茶店でよく昼食をとっていたが、注文する定番メニューがあったのだ。


今日はそれを注文するか。


残された人間にとって、他人の死とはなにか。どうしたら死をうまく昇華できるのだろう。今日の私は、その答えを「同僚の時間をトレースすること」に見出そうとした。そうすることで過去の同僚と同化し、自分の内にある死者を祀ろうとしたのだろう。


まるで儀式のように、私は事務所の階段を降りていき喫茶店の入り口までゆっくり歩いた。同僚は、職場だった建物の一階にあるこの喫茶店でスパゲティとライスを注文するのだ。


十五年前、私はカウンターに座りカルボナーラを注文した。まだ新米だった。同僚は私よりも先輩だったので、社会人としての振る舞いを私に教えてくれていた。五分ほど経った時、同僚が隣に座った。そして、いつものスパゲティとライスという炭水化物ばかりの昼食を注文した。私が、何をおかずにするのだろうと考えていたら、自分の注文したカルボナーラがやってきた。だが、それはカルボナーラではなかった。いやカルボナーラなのだが、それはパスタにクリームシチューがかかっているだけの一般的にはカルボナーラと呼ばないものだった。食してみるとあまり美味しくない。そうしている内に、同僚の昼食が運ばれてきた。私達は出されてご飯を黙々と食べて店を出た。
昼食を終えて事務所に戻った時、互いに先ほど食べた昼食の話をした。同僚も私の偽カルボナーラを不味そうなものだと思っていたようだった。そして、同僚がミートスパゲティをおかずにしてご飯を食べるという荒業に驚愕したことも、この時だった。


私は十五年前と同じようにカウンターに座って、ミートスパゲティとライスを注文した。ウェイトレスはランチメニューを頼まない私を不思議そうに見ていた。
注文した昼食は思っていたよりも迅速にやってきた。私は目の前の炭水化物を口の中に放り込んだ。ミートスパゲティなんておかずにできない。でもライスはいつも違う味がした。


店を出ると、いつもの時間が戻ってきた。一見死とは無縁の凝ったような時間だった。私はそうした時間に随分と救われていたし、いくらかその時間に死が混ざったとしても、私はまた同じ時間に戻ることができた。同僚は私の時間に、水に一滴のインクを落としたように、私の時間に死をもたらしたようだった。でも、もしかしたら死は初めから私の凝った時間の中にあって、少し色が濃くなっただけなのかもしれない。