信じてないから破壊も可能?

1:風吹けば名無し:2013/12/23(月) 02:57:54.24 id:Y3bYv9QB
じゃあ三差路とかにあるお地蔵様を蹴り壊したりできるか?

スレッドに自分と同じ意見の人があまりいなかったので、ネタとしてここに記す。


まず、「神を信じていない」から「地蔵を蹴り壊せる」という論理式は間違いである。このスレッドで前提にしている「冒涜としての地蔵の破壊」は、「神を信じている」という前提なしには不可能である。なぜなら、「地蔵」を「蹴り壊す」という意図的行為は、「神(地蔵)」という概念的存在を認知し、また確信しているからこそ「できる」からである。


最初に確認しなければならないのは、「神を信じる」「神を信じない」という態度は、どういう状態なのかであろう。「神を信じている」という態度から導こうと思う。
神を信じるということは、神という概念を当人が認知しており、且つその存在を確信している場合において「神を信じている」という状況が成り立つ。そこから、「神を信じない」を考えると、神という概念を当人は認知してはいるが、その存在自体は確信していない、あるいは半信半疑だという場合だろう。つまり「信じる」とは、まずもって信じる対象の概念認知があって初めて成立するものなのである。「神」は、概念として当人の前に存在した時に、すでにその存在そのものの信疑を「当人に」迫るという構造になっているのである。このことを起点として、「地蔵を蹴り壊すこと」あるいはこの問いの先行である「お守りをズタズタに切る」を問わなければならないのではないかと思うのである。


「地蔵を蹴り壊す」ことが「できる」ためには、地蔵(ここでは神などの霊的なものの物理的対象として)という概念を認知していなければならない。
一つ例を挙げる。ここに、神を「知らない」人間がいる。彼は「神(霊的な存在としての地蔵)」という概念を持たないので、地蔵を見てもただの「物」にしか見えないだろう。地蔵から「地蔵」という概念をそぎ落としたら、物体しか残らない。さて、彼は目の前の「地蔵」を壊すことができるだろうか。否、彼は「地蔵」を壊すことはできない。なぜなら、彼の目の前には「地蔵」は存在しない。彼がまさに蹴り壊そうとしているのは、ただの人の形をした石ころだからである。即ち、「知らない」から「地蔵(彼にとっては地蔵ではないが)を蹴り壊せない」のである。
「でも実際に彼は地蔵を蹴り壊したではないか」
なるほど、彼が蹴り壊したものは私達が地蔵と呼ぶものかもしれない。しかし、蹴り壊した当人が地蔵であると認知していないものを破壊したとして、彼は「冒涜行為としての地蔵の破壊」をしたと思い、背徳感を抱いているだろうか。恐らく、そういった感情はないであろう。概念認知は、行為の性質に関わる問立てにおいては重要な前提になるのである。


では、概念認知がされいることを前提にして、「神を信じていない」から「地蔵を蹴り壊す」という論理を考えていこうと思う。私は先に、「信じる」という態度は、その存在や出来事を確信していることだと述べた。ここで重要なのは「信じる」ということが、物事の是非を問わずに可能であり、「是非を問う」ことよりも「信疑」が順序として先行するということである。「信じる」ということと「事の是非を問う」ことは別次元の話なのである。仮に私が神のことを肯定したくとも、存在自体を確信できないと神は肯定され得ないだろうし、私が神という存在を何らかの形で確信に至ったとして、神を憎む結果にもなり得るのである。神の存在を確信し対象として捉えることができるから、神を憎んだり愛したりすることができるのである。
そして「破壊する」などの行動原理は、信疑感覚ではなくその対象であるものへの意図(好き嫌い、愛憎)に依拠している。


引用したスレッドの皆さんはわかっていると思うが、本当は「神を憎むのなら神の象徴を破壊することができるか」と問われなければならないところを、「霊的なものを信じていないが、それらを冒涜することができない人」というレスがあるように、「信じる」という概念を曖昧にしたまま論理を組もうとしたところに混乱が生じたといえる。これまで私が論じてきた、是非を問われる一歩手前の「信じる」ということが、「対象を肯定すること」ではないことであるとしたなら、「霊的なものを信じていないのであれば、例え破壊行為が完結したとしても、それが『冒涜行為としての破壊』といえるのか」ということなのだが、逆に「人は霊的なものを信じ肯定していたという条件下で行われた破壊行為こそ『冒涜』になる」という結果もまた考えられるのである。