生と死の関係と逆境を希求する構造

生は死の対極として存在しているのではなく、その一部として存在している

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

村上春樹の「ノルウェイの森」に出てくる一文だが、これに絡めて私が今年最大だと思われる発見をしたので(大袈裟)、ここに記しておく。それは、「生あるいは死は、そのどちらかが欠けた場合、双方とも定義されないかもしれない」ということである。


まずは死のない世界を想像してみる。そこは、生み出されてそのまま生き続ける世界。死なないので、「死」という概念が存在しない。死を体験しない生物は、死を想像できないと同時に、生を自覚できないのではないか。生と死を入れ替えて読んでもいい。つまり、生と死は対のものであって、どちらが欠けてもいけなかったのである。


このように、どちらかが欠けた場合に片側も存在できなくなる概念は存在していて(というか対のものはそうである)、私達の前に現れるのではないかと思うのである。


生と死の他に私が考えているのは、勝利の敗北である。誰かと誰かが戦わなければならなくて、結果として勝敗が決したとする。勝利だけがある戦いはやはり存在しなくて、勝利があれば敗北が必ず存在する。逆に、私が戦いの末敗北したと考えたと同じに、勝利という概念が立ち上がる。「生と死」「勝利と敗北」「成功と失敗」「日暮里と西日暮里」。二つで一つのもの。世界にはそういった構造が存在するのではないか、そしてそれは意外に多いのではないかと考えたのである。


更にもう一つの発見は、こうした対のものの暗い方の存在が、私達を生かしているということである。極端に言うと、もしかしたら生きるということは、こうした暗い存在を求めていく行為そのものなんじゃないかとさえ思えるのだ。なんとなれば、私自身がどうも敗北や失敗を求めて行動している節があるからだ。


あまり嗜好の良い生き方ではないのかもしれない。おそらく「普通は」達成や成功、勝利を求めて生きるのだと思う。けれど私の考え方は、最終的な物事の帰結として達成や成功を求めて生きているように見えるが、その希求する当のものは、その対であるものを得ることを通して自覚することなしには得られないという構造なのである。失敗や敗北を得た時、成功や勝利、あるいは生は私達の目の前に現れて、美しく光り輝く。同時に失敗や敗北、死も同じぐらい魅力的な光を放ち始める。だから私はこうして「失敗」や「敗北」や「死」を求めて生きているのではないかと思うのである。


「死」が存在しない「生」はない。成功だけの生き方が存在しないということが、そうした理由で自覚できたことが、今年最大の(くどい)発見なのである。つくづく、頭の悪い生き方ではあるが、やってみないと分からないタチとは、根源的にこうしたことだと思う。