黙過と罪




神が、仮に存在するとするなら、決してこれほどの悲惨に人間を出会わせることはしない。現に人間が、このような悲惨に出会っているという事実は、最終的に神が存在しないことを意味する、神は、人間を見捨て、人間は、神に見捨てられた。神は、この悲惨を「黙過」したのだ、と。


書の題材として、今回は「黙過」を書いた。この題材を選択したのには、亀山氏が訳したドストエフスキー罪と罰」を拝読した影響からである。亀山氏によると、ドストエフスキーの小説に通底するテーマとして「神の黙過」があるとしている。黙過とは、知っていながら黙って見すごすことだが、黙過について同じようなことをフランス哲学者のエマニュエル・レヴィナスも言っているんじゃないかと思う。亀山氏が考えている「黙過」とは少し違うけれど、思うことを記す。


レヴィナスによると、人間がどんなに冷酷で悲惨な状況にあって、それが何事もなく過ごされたとしても、神の不在を証明してはいない。なぜなら、神はこれまでどんな悲惨な状況であっても、常に黙過する存在だったからである。ただ、それは必ずしも、私たち人間を見捨てたわけではない。

レヴィナスの他者論は、ホロコーストの後、ヨーロッパのユダヤ人たちが、「神に見捨てられた」と思い込んで信仰に背を向けようとしているとき、彼らを信仰に引き留めるために錬成されたものである。
神はその民を救うためにいかなる天上的な介入もされなかった。
それを「神の不在」だとみなして、棄教の誘惑に屈しかけた同宗者たちに向かって、レヴィナスはこう語った。
ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。
神は、人間が神に対して犯した罪は赦すことができるが、人間が人間に対して犯した罪をとりなすことはできない。
それは人間の仕事である。
自分たちの住む世界を人間的なものにするのは人間の仕事である。
もし、神が人間に代わって世界に整序をもたらし、手際よく悪を罰し、善に報いたら、人間は無能な幼児のままでよいことになってしまう。
神が完全に支配する世界で人間は倫理的である必要がない。
倫理的であるとはどういうことかを思量する必要さえない。
神が人間に代わってすべてを整えてくれるからである。
神なしでは何もできない人間を創造することが神のめざしたことだったのだろうか。
もし神がその名にふさわしい威徳を備えているなら、神は神の支援抜きでこの世界を人間的なものたらしめるだけ霊的に成熟した人間を創造されたはずである。
「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」(『困難な自由』)


どんなに悲惨な状況だったとしても、神はそれを黙過するだろう。けれどそれは、もしも私たちが神に似せて作られた存在ならば、私たちの問題は私たちで解決すべき事であり、「黙過」は神が登場して解決することではないというメッセージなのである。神は私たちを安易には救わない。しかし、神は私たちを見捨ててはいない。この、複雑な構造が「黙過」が意味することなんじゃないかと思うのである。