蹲る身体



書の題材として、今回は「蹲」と書いた。題材を決めるのには、書によく使われるものの中からとか、故事、熟語などがあるが、師からは「自分の好きな字を書けばいいよ」と言われているので、そういった考え方で選んでいる。
で、今回は、本を読んだ中でこの字が頭に飛び込んできて、妙に印象に残っていたのでこの字にしたわけだ。


「蹲」と書いて、「うずくまる」と読む。
しかしなぜ、書の題材にこの字が選ばれたのか。なぜ、この字なのか。「蹲」と書いてなお、ずっと考えている。


その思考の途を今日は記そうと思う。


字通を引くと、「蹲」という字は、人が神事において舞う際に座る姿を表したものらしい。
蹲踞は、「蹲」の意味に近い。神への応接として蹲踞は、作法の一つとして永らく採用されてきた身体運用のようだ。
現代の蹲るという態度は、どのような心象だろうか。おそらく、「体育座り」が心象に近いのではないかと思う。あの、手や足が自ら拘束具として機能し、あらゆる動きを自ら封じ込めてしまうあの座り方である。なるほど私たちは、現代義務教育の中で、ことほどさように、自由に振る舞うことを自ら抑制することを身をもって学習してきた年代であった。


しかし、これまで年齢ばかり重ねてきた私は、今、理不尽なほど自ら動くことを強いられてはいまいか。今ほど、物事に熱くなることを求められ、沈黙することを許されず、立ち止まることができない世も、過去にないのではないか。


そういった自分を取り巻くことから断絶したくて、私はもしかしたら、蹲りたかったのかもしれない。


自らを拘束することの蹲る態度は、転じて外部からのあらゆることを拒絶し身体の内側へと向かっていく態度にも見える。蹲ることは、今の私にとってそうした意味を持っていて、現実に機能しているのではないかと思うのである。
実際に体育座りをするということではない。閉じてしまうことそのことが蹲ることの本性として、私の中の知らないところで行動として行われているということである。


その行動は、本当の意味を隠蔽して私の前に現れるものなので、こうして推測するしかないものなのである。