無駄知識よ永遠なれ

今年も、もうすぐ終わろうとしている。私自身は、前厄ということもあって、自分の振る舞いはいつもの年よりも比較的慎重であったように思う。アウトプットよりもインプットが多かった年だった。



<剣道と私>
初夏まで続けてきた剣道の出稽古に、仕事の事情で行けなくなった。いや、仕事の事情というのは、単なる言い訳に過ぎない。でも、では何が原因なのかと問われても、よくわからない。本当は行きたいのだけれども、行くことができないでいる。
自分が所属している道場には行く時間が増えた。そこには、子供が大勢いて、剣道を教えなければならない人たちがたくさんいる。自分はそこで剣道そのものを身に着けることはないが、剣道を教授される人たちに教えなければならない立場にあることが多くなった。そしてこの「剣道を教える」ことが、初夏までの出稽古がなければできなかったことだった。


なるほど私はこれまで、誰かから剣道の「理」を教授されたことはなかったということなのだ。


いや、本当はこれまでの剣道人生でもそうしたことはあったのかもしれない。でも、竹刀の当てっこに夢中になって、そこに隠れていた理法まで思いが至ってなかった。今ようやく、その剣の理法のとば口に立ったのだと思う。



<フランス現代思想と私>
ここ数年、私の軸を作ってくれた私の中のフランス現代思想は、今また、より大きく、また違った形になりつつあるように思う。これまでは、本の乱読から本当に1~2人の著書を読んで身に着けてきた。だがそれは、フランス現代思想の広大な宇宙の、その1つの銀河系の1つの星の植物体系しか知識を得ていなかったようなものだった。


なるほど私はこれまで、フランスという知識体系に敬意は払いつつも、同じ星の違う生物の体系さえ知らなかったのだ。


今、私はその機会をとらえて、まずはフランス現代思想に影響を与えていることを概観するために、入門書を乱読している最中である。現代日本では無駄だと思われているこうした哲学的知識たちを拾い集めて享受し、生きる糧にしようとしているのだ。



<書道と私>
書道を初めて3年が経った。習字とは違って、書道は私にいろいろなことを迫ってくる。その一つが、作品を書くことによる、書道の理解である。
先日も作品を一つ書き、それについての思いも記した。いつも思うことは、字の形や線がもたらす心象と、字そのものの意味が、一つになることが可能なのかどうかということ。そして、そもそも字の「形」と「意味」に相関関係が本当にあるのかということだ。
字を書いていると、字の意味が消えて形そのものの美に焦点が移ってしまうことがある。書いている瞬間、字の意味は考えられないのだ。だから書いた後に、字の意味が付与されて、一つの体系が(幻想をと言い換えられるかもしれない)作られるということなのだ。


それははたして、本当に字を書いたことになるのだろうか。


事後的に意味が付与されるということは、字の「形」と「意味」に真の相関関係はないということではないか。こんな状況で私がしなければならないことは、字そのものが線や色を伴って、一つの「なにものか」になることを書くことかもしれない。



<私>
剣道と書道、フランス現代思想は、私に同じことを言い続けているように思う。それは必ずしも、真ではないのかもしれないが、私の中での信念として蓄積していく。でも、その信念の蓄積によって築かれた総体が、結局何なのかということを決定しないことが、今私がやっていることの意味に大きく関与しているように思う。もうしばらく私は、この「なにものか」と一緒にいたいと思う。もちろん来年もそうしたいと思っている。