お金で人の行為をひっぱたく時代

ユダヤ人だというだけで、その人たちに投石をする少年たちがいました。彼らは毎日ユダヤ人のところに来ては石を投げつけ、迫害を続けていました。
ある日、一人の男がやってきて少年たちに言いました。
「君たち、毎日大変だね。今日も投石をしたから100ドルあげるよ。また明日やってくれたら100ドル払うよ」
少年たちは喜んで帰っていきました。
次の日も、また次の日も、少年たちは投石し、男からお金をもらい続けました。
そしてある日のこと、いつものように少年が投石をし終わったころ、男は少年たちに言いました。
「君たち、毎日ご苦労さん。今日は君たちに謝らなければならない。今までは投石に100ドルあげられたんだけど、今日は50ドルしか渡せないんだ」
少年たちは渋々50ドルを受け取り、帰っていきました。
翌日からも少年たちは投石を続けましたが、男からもらえるお金は日毎に減っていき、ついに「君たちにあげられるお金はもうないんだ」と言われてしまったのです。
少年たちは「チッ!こんなことやってられるかよっ!」と言って、もうやってきませんでした。

引用元-????

上記のような説話をたぶんラジオで聞いたと思うんだけど、出典が結局探せなかったので、ユダヤ人の部分がそうじゃなかったかもしれない。申し訳ない。


最近この説話が頭に浮かぶことが多くなった。というのは、この手の話が私を取り巻いている世間で、多くなってきたんだと思う。
このお話が言いたかったことはたぶん「ユダヤ人のお金の使い方」のことだと思うんだけど、私はこれを反芻するうちに、ユダヤ人どうのじゃなくって、お金の影響の話をしてるんじゃないのかと思った。


平たく言ってしまうと、結局少年たちの迫害行為にお金という価値基準で初手を打ち、価値の初期値から目減りさせることで、行為の価値そのものを減じてしまうという話で、行為をお金で買って、その後買われなくなったため市場価値がなくなり、行為も止むということだ。


具体的な事例は言わないけれど、今の日本の施策で、お金を心的誘導に使っているものがものすごく多いように思う。「これをしたら○○円補助します」とか「基準をクリアしたら○○円交付します」とか。でも、お金で釣るという行為の弱点は、所詮金がなくなったら、あるいはお金が目減りしたら、もうその行為はされないだろうということだ。
渡す側に立てば、税金を分配することが仕事だという理もわからなくはない。ただ、今の現状は結果に対してカネを渡すことそれ「だけ」で、後の行為は特に配慮されていない。これって結局何もしてないのと同じじゃないのかな。


説話を読むと、本当に傲慢なのは少年たちではなくて、お金を渡してる男の方だともとれる。少年たちの差別意識そのものを改めたわけではない。もしお金が再び渡されるようになれば、彼らはまた投石を再開するだろう。けれど、男の立場から本当の目的を善意で理解した場合、少年たちの差別意識を改めることが目的ではないか。
「これをしたら○○円補助します」という「これ」そのものを改められるのは、少なくともお金ではない。だったら何なんだよと言われても私は答えられないが、たぶん今の日本のカネ至上主義がこれほど跋扈する前は、お金とは違う価値基準があっただろうと思う。あるいは、様々な価値基準が共存可能な社会だったかもしれない。でも、もうそんな時代は死んだのだろうし、今のような世では、私のような考えはそのうちバカ呼ばわりされるのだと思う。