薄々気付いていたけれど改めて動揺していること

私は今、とても動揺している。


今回は自分のことをナイーブだったなって思う。でも、先日答えを聞いて「あっ!やっぱりそうだったんだ・・・」って気付いたので、それを記したいと思う。


気付いたことを先に書くと、私の同僚は橋下徹のマネをしていて、私はその不利益を被っていたということだ。それがわかったのは、当の本人が「橋下さんが好きで、引退したのは残念だった」と言っていたからだった。橋下氏をリスペクトしていて、内面化していたのではない。本当に「マネだけ」だったというところに、絶望感を禁じ得ない。


昨年の今頃、ちょうどブログに「見えない刃 身体の痛み」というエントリを書いた。同僚のディベート病に私が苦しんでいる事を書いたエントリだが、この時には「なんか橋下が言っていることに似てるな」とは思っていた。この頃すでに、同僚は橋下氏の言説に影響され、「反論するなら対案を出せ」だの「学者はわかってない」だのと言っていたのを思い出す。
そして昨年の夏頃、藪から棒に「政治家になれるんじゃないかな」とのたまっていたことがあった。どうして急にそんなことを言い出すのかと当時は思ったが、今にして思えば、ただただ「橋下のマネ」をしたかっただけじゃないかと思う。自分の好き勝手なことを言って票が取れりゃあ世話ないわと言ったが、同僚は橋下のマネをしていれば政治家になれると思ったのだろう。


橋下氏のメディア露出が減るにつれ、同僚の言動も力を失っていく。昨年12月に橋下氏が政治家をやめたのを機に、ついにネタバレをしたというわけだ。


私が自分のナイーブさを悔いるのは、ひとつは、こんなわかりやすい猿マネを見抜けなかったこと。それからもうひとつは、こんな猿マネごときに一時的にではあれ自尊心を大いに傷つけられた人達がいて、それを救えなかったことだ。
橋下氏は政界の渡世として、ああいった手段を使っている。そうすることで、自分自身の欲求を満たしている部分もあるのだろう。そういったわかりやすい人間像は、ある種の思想とすごく馴染んで、結果災厄の人間像を生み出した。この「ある種の思想」に名前をつけることが今の私の語彙にないので伝わりづらいが、特徴を列挙したい。


・本当に自分のことしか考えていない。
・もしかしたら自分の考え方は間違っているかもしれない、という客観視がない。
・あることができないのは本人の努力が足りないからだと思っている。だから、他人が失敗すると自分を勘定に入れないので、簡単に人のせいにでき、激怒することができる。
・安いナショナリズムになびきやすい。
・変化が正義だと思っている。翻って、保守を嫌う。例えば、件によっては現状維持で問題がないことでも、無理矢理変えようとする。件の内容を見ていない。ただただ、変化することが良いことだと思っている。
・総じて、自分への賞賛欲求を満たすことに全力を注いでいる。そのためには、虎の威を借リてでも達成しようとする。


自己愛の強い人がハシズムと出会ったとき、今回のような事が起こるのだろうと思う。同僚の己の支配欲求を満たすために、我々は自尊心をズタズタに切り刻まれたのだった。人が作ってきた仕事を支離滅裂だが猛烈な批判で突き返したり、己の意見があたかも正しいように装って強引に押し通そうとしたり、人の交渉事に空気が読めないくせにヒーロー気取りで入ってきたり。他者否定を挙げたらきりがない。


こうした幼稚な人間と付き合わなければならないのは、不幸としか言いようがないのだが、やっぱり社会的には大人である以上、それなりのケジメはつけなければならないと考える。

お金で人の行為をひっぱたく時代

ユダヤ人だというだけで、その人たちに投石をする少年たちがいました。彼らは毎日ユダヤ人のところに来ては石を投げつけ、迫害を続けていました。
ある日、一人の男がやってきて少年たちに言いました。
「君たち、毎日大変だね。今日も投石をしたから100ドルあげるよ。また明日やってくれたら100ドル払うよ」
少年たちは喜んで帰っていきました。
次の日も、また次の日も、少年たちは投石し、男からお金をもらい続けました。
そしてある日のこと、いつものように少年が投石をし終わったころ、男は少年たちに言いました。
「君たち、毎日ご苦労さん。今日は君たちに謝らなければならない。今までは投石に100ドルあげられたんだけど、今日は50ドルしか渡せないんだ」
少年たちは渋々50ドルを受け取り、帰っていきました。
翌日からも少年たちは投石を続けましたが、男からもらえるお金は日毎に減っていき、ついに「君たちにあげられるお金はもうないんだ」と言われてしまったのです。
少年たちは「チッ!こんなことやってられるかよっ!」と言って、もうやってきませんでした。

引用元-????

上記のような説話をたぶんラジオで聞いたと思うんだけど、出典が結局探せなかったので、ユダヤ人の部分がそうじゃなかったかもしれない。申し訳ない。


最近この説話が頭に浮かぶことが多くなった。というのは、この手の話が私を取り巻いている世間で、多くなってきたんだと思う。
このお話が言いたかったことはたぶん「ユダヤ人のお金の使い方」のことだと思うんだけど、私はこれを反芻するうちに、ユダヤ人どうのじゃなくって、お金の影響の話をしてるんじゃないのかと思った。


平たく言ってしまうと、結局少年たちの迫害行為にお金という価値基準で初手を打ち、価値の初期値から目減りさせることで、行為の価値そのものを減じてしまうという話で、行為をお金で買って、その後買われなくなったため市場価値がなくなり、行為も止むということだ。


具体的な事例は言わないけれど、今の日本の施策で、お金を心的誘導に使っているものがものすごく多いように思う。「これをしたら○○円補助します」とか「基準をクリアしたら○○円交付します」とか。でも、お金で釣るという行為の弱点は、所詮金がなくなったら、あるいはお金が目減りしたら、もうその行為はされないだろうということだ。
渡す側に立てば、税金を分配することが仕事だという理もわからなくはない。ただ、今の現状は結果に対してカネを渡すことそれ「だけ」で、後の行為は特に配慮されていない。これって結局何もしてないのと同じじゃないのかな。


説話を読むと、本当に傲慢なのは少年たちではなくて、お金を渡してる男の方だともとれる。少年たちの差別意識そのものを改めたわけではない。もしお金が再び渡されるようになれば、彼らはまた投石を再開するだろう。けれど、男の立場から本当の目的を善意で理解した場合、少年たちの差別意識を改めることが目的ではないか。
「これをしたら○○円補助します」という「これ」そのものを改められるのは、少なくともお金ではない。だったら何なんだよと言われても私は答えられないが、たぶん今の日本のカネ至上主義がこれほど跋扈する前は、お金とは違う価値基準があっただろうと思う。あるいは、様々な価値基準が共存可能な社会だったかもしれない。でも、もうそんな時代は死んだのだろうし、今のような世では、私のような考えはそのうちバカ呼ばわりされるのだと思う。

無駄知識よ永遠なれ

今年も、もうすぐ終わろうとしている。私自身は、前厄ということもあって、自分の振る舞いはいつもの年よりも比較的慎重であったように思う。アウトプットよりもインプットが多かった年だった。



<剣道と私>
初夏まで続けてきた剣道の出稽古に、仕事の事情で行けなくなった。いや、仕事の事情というのは、単なる言い訳に過ぎない。でも、では何が原因なのかと問われても、よくわからない。本当は行きたいのだけれども、行くことができないでいる。
自分が所属している道場には行く時間が増えた。そこには、子供が大勢いて、剣道を教えなければならない人たちがたくさんいる。自分はそこで剣道そのものを身に着けることはないが、剣道を教授される人たちに教えなければならない立場にあることが多くなった。そしてこの「剣道を教える」ことが、初夏までの出稽古がなければできなかったことだった。


なるほど私はこれまで、誰かから剣道の「理」を教授されたことはなかったということなのだ。


いや、本当はこれまでの剣道人生でもそうしたことはあったのかもしれない。でも、竹刀の当てっこに夢中になって、そこに隠れていた理法まで思いが至ってなかった。今ようやく、その剣の理法のとば口に立ったのだと思う。



<フランス現代思想と私>
ここ数年、私の軸を作ってくれた私の中のフランス現代思想は、今また、より大きく、また違った形になりつつあるように思う。これまでは、本の乱読から本当に1~2人の著書を読んで身に着けてきた。だがそれは、フランス現代思想の広大な宇宙の、その1つの銀河系の1つの星の植物体系しか知識を得ていなかったようなものだった。


なるほど私はこれまで、フランスという知識体系に敬意は払いつつも、同じ星の違う生物の体系さえ知らなかったのだ。


今、私はその機会をとらえて、まずはフランス現代思想に影響を与えていることを概観するために、入門書を乱読している最中である。現代日本では無駄だと思われているこうした哲学的知識たちを拾い集めて享受し、生きる糧にしようとしているのだ。



<書道と私>
書道を初めて3年が経った。習字とは違って、書道は私にいろいろなことを迫ってくる。その一つが、作品を書くことによる、書道の理解である。
先日も作品を一つ書き、それについての思いも記した。いつも思うことは、字の形や線がもたらす心象と、字そのものの意味が、一つになることが可能なのかどうかということ。そして、そもそも字の「形」と「意味」に相関関係が本当にあるのかということだ。
字を書いていると、字の意味が消えて形そのものの美に焦点が移ってしまうことがある。書いている瞬間、字の意味は考えられないのだ。だから書いた後に、字の意味が付与されて、一つの体系が(幻想をと言い換えられるかもしれない)作られるということなのだ。


それははたして、本当に字を書いたことになるのだろうか。


事後的に意味が付与されるということは、字の「形」と「意味」に真の相関関係はないということではないか。こんな状況で私がしなければならないことは、字そのものが線や色を伴って、一つの「なにものか」になることを書くことかもしれない。



<私>
剣道と書道、フランス現代思想は、私に同じことを言い続けているように思う。それは必ずしも、真ではないのかもしれないが、私の中での信念として蓄積していく。でも、その信念の蓄積によって築かれた総体が、結局何なのかということを決定しないことが、今私がやっていることの意味に大きく関与しているように思う。もうしばらく私は、この「なにものか」と一緒にいたいと思う。もちろん来年もそうしたいと思っている。


蹲る身体



書の題材として、今回は「蹲」と書いた。題材を決めるのには、書によく使われるものの中からとか、故事、熟語などがあるが、師からは「自分の好きな字を書けばいいよ」と言われているので、そういった考え方で選んでいる。
で、今回は、本を読んだ中でこの字が頭に飛び込んできて、妙に印象に残っていたのでこの字にしたわけだ。


「蹲」と書いて、「うずくまる」と読む。
しかしなぜ、書の題材にこの字が選ばれたのか。なぜ、この字なのか。「蹲」と書いてなお、ずっと考えている。


その思考の途を今日は記そうと思う。


字通を引くと、「蹲」という字は、人が神事において舞う際に座る姿を表したものらしい。
蹲踞は、「蹲」の意味に近い。神への応接として蹲踞は、作法の一つとして永らく採用されてきた身体運用のようだ。
現代の蹲るという態度は、どのような心象だろうか。おそらく、「体育座り」が心象に近いのではないかと思う。あの、手や足が自ら拘束具として機能し、あらゆる動きを自ら封じ込めてしまうあの座り方である。なるほど私たちは、現代義務教育の中で、ことほどさように、自由に振る舞うことを自ら抑制することを身をもって学習してきた年代であった。


しかし、これまで年齢ばかり重ねてきた私は、今、理不尽なほど自ら動くことを強いられてはいまいか。今ほど、物事に熱くなることを求められ、沈黙することを許されず、立ち止まることができない世も、過去にないのではないか。


そういった自分を取り巻くことから断絶したくて、私はもしかしたら、蹲りたかったのかもしれない。


自らを拘束することの蹲る態度は、転じて外部からのあらゆることを拒絶し身体の内側へと向かっていく態度にも見える。蹲ることは、今の私にとってそうした意味を持っていて、現実に機能しているのではないかと思うのである。
実際に体育座りをするということではない。閉じてしまうことそのことが蹲ることの本性として、私の中の知らないところで行動として行われているということである。


その行動は、本当の意味を隠蔽して私の前に現れるものなので、こうして推測するしかないものなのである。

カインの呪い

ある日2人は各々の収穫物をヤハウェに捧げる。カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェアベルの供物に目を留めカインの供物は無視した。嫉妬にかられたカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。その後、ヤハウェアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の監視者なのですか?」と答えた。

昨日の夜中に突然この話が舞い降りてきた。どうしてかと思って考えていたが、あるアイディアが浮かんだのでここに記す。


アイディアとは、アベルは呪い殺されたというものである。


「そんなことはない、カインに刺されたんだろ」「そんな呪術で殺されてなどいない」というご批判もあると思うが、ちょっと聞いてほしい。
このお話は、兄弟間の心の葛藤を描いたものとして一般的には理解されている。やや乱暴に解釈すると、兄弟は常にこのような不平等に晒されており、常に葛藤を抱えた関係だということと思われる。
私が閃いたのは、カインとアベルは神の選択によって差が生じたこと、そして選ばれたアベルの立場は最終的に呪われる存在になるだろうということである。重要なのは、呪いが起動する前提条件が、選択されることによる「差」そのことであること。その差が現れることの起源は、選択される当の人々に現前しないということだ。


この解釈を思いついたのは、私の職場でこの話と全く同じことが起こっていたからだ。


ここにある職場がある。4人チームの小さな職場。
そこに、新規採用で1人の女性が入ってきた。仮にAさんとする。Aさんは然るべき手続きを経てチームに迎えられる。仕事もよくできて、とても優秀な女性であった。
そんなAさんのチームのBリーダーは、Aさんがちょっと苦手であった。Bリーダーはこのチームでは王のように振る舞っている。AさんはそんなBリーダーに評価されようとがんばっているが、思うようにはいかない。でも、仕事は一生懸命やっていた。
実はAさんが採用される少し前、Cという女性が採用されていた。Cは、Bリーダーが前から目をつけていた他の部門からの引き抜きだった。いや、実際に引き抜かれたのかどうかわからない。しかし、Bリーダーが目をつけていた人間が、部下として迎えられたという事実を、Aさんはしばらく知らなかった。


Bリーダーから祝福を受けてチームに入ってきたCの姿は、Aさんの目にはどう映っただろう。
理由がわからなければ、「同じ職場なのに、同じ部下という立場なのに、何でCばかりが」と思ったに違いない。


AさんとC、Bリーダーの関係は、まさにカインとアベルヤハウェの関係そのままに思われる。AさんとCは能力も大して変わらない。ただ、BリーダーがAさんの前にCを抜擢してきたというそのこと、Cが「選ばれた」存在だというその小さな「差」が、Aさんにとっては己の否定になるのだ。果たして、呪いはこの「差」に荷担している人々、CだけでなくBリーダーにも起動するのだ。


Cにとっては誠に不本意だろう。なぜ私が呪われなければならないのかと思うだろう。だが、理由もなく呪われたりはしない。もしその理由は何かと考えたとき、カインとアベルには神が供物を選ぶという、ほんの僅かの、しかし決定的な差が、呪いの起動理由として存在することに気がつくだろう。


ヤハウェがカインではなくアベルを選んでしまったこと。そのことがこの話形での、呪いが発動する条件なのだ。


この構造は、BリーダーとCのみならず、Bリーダーが引き抜いてきた人間は全員呪われるという仕組みになっている。案の定、この後チームに入ってきた人たちは次々に呪いが発動し、やがてチームはうまく回らなくなっていく。常に感情的な問題が起き、余計なルールが蔓延する。もはや、こうなってしまったら、呪いがかかったBリーダーが非業の死を遂げるか、Bリーダーの引き抜いた人たちがいなくなるまで、この呪縛が解けることはない。


解決策はあるだろうか。もはやアベルは呪死するしかなく、ヤハウェは呪われたままなのだろうか。


希望があるとすればヤハウェはカインの捧げ物も受け取ること。あるいはアベルヤハウェとの心的距離をカインのそれか、それ以上とること。このお話から導かれるヒントは、凡人の私にはこれくらいしか思いつかない。


冷たいことを言うが、私は彼らを救おうなどとは思っていない。彼らには、神のごとき振る舞いをした報いをしっかりと受ければいいと思っている。私は神ではないし、身の程をわきまえているつもりだ。

相手の立場に立つということ

仕事の関係で、大学生の会社見学を受け入れることになったらしい。「らしい」というのは、僕の仕事ではなくて、別の部がその仕事の担当になっているからだ。ただ、こちら側としては会社見学のプログラムを提案する必要があるらしく、案を作る段になって担当者から僕に相談が少しあったわけだ。
担当者は、僕とは別のアドバイザーから「相手の(この場合学生の)立場に立ったら何が知りたいかを考えて作ろう」と助言があって、それをもとに作ることになっていた。


この「相手の立場に立って、且つ何が知りたいかを考える」ということが僕の中でどうしても引っかかって、でもその場では言葉にしなかったので、ここに記す。


相手の立場に立つという想像はとても難しい。なぜかというと、相手の立場に立つように想像を巡らせたとき、必ず自分の"読み"が入るからである。その"読み"の割合が大きい場合、それはもう相手の立場には立っていない。だが「相手の立場に立つ」ということを軽く考えたときに得てしてそうなってしまいがちであると同時に、今回は「何が知りたいかを考える」がついているために、余計に己の"読み"が入ってしまう可能性が高い。この二つの条件から、果たして相手の立場に立つことは至難の業なのである。


「じゃあ、相手の立場に立つとはどいういうことなんだよっ」と思うでしょう。


「相手の立場に立つ」ということは、時間軸や相手の思考パターンも含めて相手になりきる、いわば内側から相手になること、且つその内側の相手になった己を、外側からもう一度考えることである。


今回の例えで言うと、会社見学に来る学生の立場に立つとき、自分が学生だったときのことを想像して、それを当てはめてはいけない。なぜなら彼らを取り巻いている環境(時間軸)は、自分が学生だったときのそれと違うからである。だから、今の学生をまず想像しなけばならない。思考パターンも同様である。物事に対する構えは、自分が学生だったときとは違う可能性もある。相手の立場に立つには、相手の置かれている状況をも勘定に入れて想像する必要がある。
そしてそうやって作りだした自分の内側にできた仮の相手を、今度はもう一度見直すことで初めて相手の立場に立った思考が可能である。会社見学に来る学生(仮の相手)が望むであろうことは、果たして僕らが伝えるべきことだろうか。こちら(外側の己)が考えることとどうやって折り合いをつけたらよいだろう。ここまで考えてようやく"勝手読み"の割合が減るわけである。


だから、相手の立場に立つには自分自身も多くの経験(特に立場がシフトするような経験)が必要なのだ。現実に立場が変わることを経験するのが一番質のいい経験である。教えるものから教わるものへ、与えるものから受けるものへ、私たちは絶えずこうした立場のシフトを経験しているはずだが、その経験はいつしかその時の趨勢でどちらかに偏ってしまいがちである。本当はそういった趨勢を割って反対の立場になることが、自分とは違う立場になることだと思う。


果たして、今度来る学生は会社見学に望んて来るのだろうか。

気に入らない本が出版されるということ

本心はどうか。それを販売すること、売上にすること、酒鬼薔薇聖斗の印税になってしまうことについて、どう気持ちを処理すればいいのか。

僕はこの本を買わないし、今後も読むことはないと思うけど、そういったことではなくて、この本が出版されたことを巡るやりとりについて、思ったことを記そうと思う。


上記リンク先は、書店の方が書いているのだと思うけれど、まず「売らなければならない」という言葉を「店頭に置かなければならない」という言葉に代えなければ、本当のことがわからなくなると思う。


つまり、言いたいのは「カネが何だって言うのか」ということだ。


本を読もうと思ったら今のところ買うしかないのだとして、その対価は支援のための一票ではない。ただのカネである。結果的に印税として酒鬼薔薇聖斗を支援する(潤うという表現もできる)ことになるのかもしれないが、カネに何ができるというのか。もし、酒鬼薔薇聖斗がカネを目的にこの本を出版したのだとすれば、こっち側の姿勢として「別に本なんて読まないけど、カネがほしけりゃくれてやる」という態度もあり得る。問題は印税やカネの話ではない。最近の問いの立て方は、すぐにカネの問題にすり替えられるが、そんなものが問題の本質なわけがない。


そうではなくて、問題は、酒鬼薔薇聖斗が書いたという本そのものではないか。


月並みにはなるが、もう本が出版されてしまっている以上、ここから出発しなければならないとして、この本は読むべきか読まざるべきかという問いは立てられる。もし、この本が自費出版で無料で手に入れられる物だとして、果たして僕らはこれを、今、本当に、貴重な時間を割いてまで、読まなければならないのだろうか。否、このような駄本に時間を費やすのは、本当に無駄なことだと僕は思う。


もし、酒鬼薔薇聖斗が書いた「絶歌」を議論したいのなら、「ほんとにこんな本読むの?」という問い立てをしてみるといいと思う。そして、この問いはどんな本にも応用できるものである。